注文の多い桜井くんの料理店 1

土曜日, 10月 31, 1981

 いくらアスファルトで舗装してあったって、水たまりはできることぐらいちゃんと考えとくべきだったなあ、と僕は後悔したんだけと、ちょっと相当遅かったみたいだった。今朝はあれだけ降っていた雨もすっかりやんでしまって、晴れ間さえ見えてきたもんだから、なんだか僕はうれしくなって、傘をステッキがわりにして、ニコニコしながら、駅の方へ歩いていたのだ。この分だと明日は本格的に晴れるなあ、なんて平和なことを考えてて、つまりは道路の上をよく見ていなかったんだけれど、足元で、バシャ、と水音がしても、しばらくの間はいったいどうしたのか理解できなかった。
「あ……。」
まさか自分の足が水たまりに突っ込んだ時の水音だなんて思ってもみなかった。もちろん、あわてて足を水たまりから引き上げたけど、こういう時に限って愚かしくも、キャンバス地のスニーカーだったりするものだから、水がじわじわと靴下にまでしみ通って来てしまった。
 僕はしばらくの間、我が身の不幸を嘆いて茫然と立ちつくしていたのだが、そうしたらもっと不幸なことになってしまった。
「あーあ。」
ぎくっとして声の聞こえた方に振り返ったら、桜井が馬鹿にしたような目付きでこっちを見ていた。
「見た?」
桜井は、やれやれといったふうに僕の方に歩いて来ながら、
「当たり前だろ。いったいどこ見て歩いてたんだよ。」
なんて僕をののしるのだ。たまたま考えごとをしてたからこうなっただけの話で、いつもはちゃんと水たまりを避けて歩いてるんだし、それに、たかが水たまりに足を入れたっていうだけのことで、ドブにはまったりしたわけでもないんだから、そんな言い方をしなくてもいいんじゃないかと思うのだ。
「ちょっと考えごとしてたから……。」
と、僕は言い訳しようとしたんだけど、
「そうやって世間の物笑いのタネになってりゃ世話ないよ。」
こういうふうに言われては、結局は沈黙せざるを得なくなってしまう。
 かわいそうに僕は、打ちひしがれて歩き出したんだけど、そうしたら足のへんが何となくじゅくじゅくして、いっそうみじめな気分になってしまった。
「そのままで帰るつもりなのか?」
隣に並んで歩き始めた桜井はそう言ったけど、どちらかというと同情よりも嘲りの口調だった。
「仕方ないだろ。」
僕がちょっとむかついて言うと、桜井はくすくす笑って、
「俺の下宿に寄っていけよ。靴ぐらい貸してやるよ。」
なんて言ったのだ。
「え、本当に?」
僕があさはかにも、桜井はその申し出を好意から言ってくれてるんだろう、なんて思い込んでしまったもんだから、あんなひどい目にあうことになってしまったんだ。桜井という奴は、友達の僕に金を貸してさえ、きっちりと利子を付けて請求するような奴で、もっとも僕だってそこまで馬鹿じゃないから、利子を付けて返したりはしないけど……。
 だから、僕が、
「悪いなあ……。」
なんて言った時も、
「気にすることないよ……。」
桜井はニヤニヤしていて、純情な僕はその桜井のニヤニヤをいいほうに解釈してたんだけど、あと少しばかりの洞察力が僕にあれば、桜井がニヤニヤ笑うなんていうのは、とんでもないことの前ぶれなことぐらい思いつけたはずなのだ。
「俺の下宿は近いから……。」
僕の下宿は電車で駅が四つほどあるんだけれども、桜井の下宿は歩いて十分もかからないぐらいだった。
「わりと近いんだなあ。」
それなのに、どうしていつもいつも講義に遅刻してくるんだろう、なんて僕は思ったけど、こんなこと言うとヤブヘビに決まってるから黙っていることにした。
「まあ上がれよ。」
上がれといわれても、僕は濡れてしまった靴下まで脱がなきゃならなかったから一苦労だった。
 下宿だから六畳一間なのは仕方ないにしても、うらやましいことに南向きの窓なんかがあって、そこに置いてあるベッドも寝起きそのままなんかじゃなかったし、案外にかたづいてて、思ってたよりも居心地良さそうな感じだった。
「茶でもいれてやるよ。」
僕が床に座ってきょろきょろしてると、桜井は立ち上がってやかんをガスにかけた。
「へえ、流し台までついてるのか……。」
畳一枚分ぐらいのスペースに水道とガスが引いてあって、意外なことには電気釜なんかも置いてあった。
「自炊してるのか?」
「まあな……。」
桜井は僕を床の上に放ったらかしたまま、自分だけベッドに腰かけながら言った。
「自炊してるほうがうまいものが食えるし、多少ぜいたくしても外食よりは安上がりなんじゃないかなあ。」
桜井が自炊してるとは知らなかったから、僕は、へえ、なんて感心してちょっと桜井を見直してしまった。
「めんどうじゃないか?」
「だから、そういうときのために冷凍食品とか、インスタントとか、いろいろあるだろう?」
ふうん、なんて僕が感心していると、やかんが湯気を吹き出し始めていた。
 桜井は、やかんの湯をポットに移しながら、
「コーヒーでいいか、インスタントしかないけど。」
と言った。実を言うと、一般に喫茶店とかのメニューにあるもので僕が一番気に入ってるのは、一番手間のかかるココアで、二番目が日本茶あたりで、コーヒーなんかはあまり好きな部類には入らないんだけれども、そういうことを言うと桜井の奴に、ガキっぽいとかオジンくさいとか言われるのは決まってるので、僕は何もコメントせずに単にうなずいたのだ。
「今日はついでに晩飯も俺のとこで食っていけよ。」
砂糖をたくさん入れた、お菓子みたいに甘いコーヒーを僕がすすっていると、桜井がそう言った。
「今日はフルコースだなあ。」
「いいのか、本当に……。」
晩飯を出してくれるというのはともかく、フルコースなんていうのは単なる冗談だと思ってたから、僕は気にもとめなかった。