次の日の朝、俺は、枕元に座った三助の声で目が覚めた。
「おはようございます。お客さま。」
驚いた俺が起き上がろうとするのを制するように、三助はいきなり俺の口を自分の口でおおってきた。
「む、……ん。」
その巧みな舌使いは、俺をとろけさせるのに充分だった。三助のその舌の動きに、ぼうっとなってしまいそうな自分を必死に押さえて、俺は、三助の唇から離れた。そして、両手で体を支えながら起き上がると、
「来てくれたのか?」
三助の手を握った。俺は、てっきり三助が俺とこの宿を抜け出すために俺に部屋に来てくれたのだと思っていた。
「いえ、最後にお客さまにごあいさつを申し上げたくて参りました。」
三助は、うつむき加減になって、それでも、俺の手は握り締めたままでそう言った。
「お客さまにお会いできて、うれしゅうございました。先輩に似ているから、というだけではございません。きのうは、お客さまに体をかわいがっていただきながら、これまで感じたことがないほど気持ちがよかったです。あの時のわたくしのよがり声も体の悶えも、作り物ではありません。むしろ、あまり派手ではいけないと思って必死で押さえていたのですが、お客さまにかわいがっていただくと、どんなに我慢しようとしても声が出て体が悶えてしまったのです。こんなに立派なお客さまにかわいがっていただけたなんて本当に幸せでした。この宿で働くようになってから、これほどにうれしかったことは初めてです。」
三助は、一気にそう言うと、嬉しそうな顔をして、俺の手に自分の唇を重ねた。
「だったら、なぜ……。」
俺が三助を引き寄せようとするのを振り払うようにしながら、けれども俺の手は相変わらず握ったままで三助は続けた。
「わたくしの体は、いろいろなお客さまになぶられて、それでも旦那様の言いつけで気を遣ることなく悶々としたままお客さまに奉仕して、夜になってやっと旦那様にかわいがっていただくように仕込まれてしまいました。今さら、ここを出ても、わたくしにこれ以外のどんなことができましょう。ましてや、お客さまのように堅気に働いている方のもとに行ってもご迷惑をおかけするだけです。どうか、これ以上、わたくしに優しい言葉をおかけにならないでください。よけいに淫らな自分がつらくなります。」
三助はちょっとつらそうな顔をしたが、すぐに人なつこい笑顔に戻った。
「もう、ここにおいでになってはいけません。きっと、旦那様もお客さまをお断りすると思います。でも、わたくしのことをかわいい奴と思われたのが本当なら、どうか、時々で結構です、わたくしのことを思い出してやってください。お客さまがわたくしのことを、思い出してくれているかもしれない、と思うだけで、わたくしは幸せです。」
そして、三助は、俺の手を離すと、畳に両手をついて、ぺこり、と頭を下げた。
「では、これで、失礼します。お客さまの部屋にわたくしが出入りしたことがわかりましたら、今度こそ、旦那様にどんなお仕置きを受けるかわかりませんから。」
そう言って三助は立ち上がろうとして、ふと一瞬の迷いをみせた。三助の視線と俺の視線が激しく絡み合い、俺は、きのうの三助のあえぎ声を聞いたように思った。その時、三助は、両手で俺に抱きつくと、息が詰まりそうなくらいねっとりと俺の口を吸った。俺の感覚は、三助の舌とからんでいる自分の口に集中していた。このまま時が止まってしまうかと思うくらい長い間俺と三助は口を合わせていたが、やがて、
「先輩……。」
ゆっくりと口を離した三助は、そうつぶやいて、すすっ、とかき消すように部屋から出ていった。俺は、なすすべもなく、言うべき言葉も思いつかないまま、三助が部屋から出ていくのを見守るばかりだった。
俺は、呆然としたまま、朝食に箸をつける気にもならず、出発までの時間を部屋で過ごしていた。そして、そろそろ宿の船が送ってくれる時間になる頃、主人が部屋に入ってきた。
「ごゆっくりお過ごしいただけましたか。」
俺は、答えるべき言葉を思いつかなくて、ただ、
「ええ。」
とだけ答えた。
「そうですか、それはよろしゅうございました。」
主人は、にこやかに微笑みながらそこで一息ついて、
「お客さまはまだまだお若いですし、それこそ、どこに行ってももてはやされたおいでのことと存じます。このような宿にお迎えするべき方ではないかと拝察されますので、どうか、今後のお訪ねはご遠慮いただけますよう、よろしくお願いいたします。」
畳に両手をつきながら、俺に向かって深々と頭を下げた。
俺は、そのまま、宿の主人に案内されて、来た時と同じ船に乗り込んだ。湖上をすべるように渡っていく船の上から振り返って見た浴場の窓に、三助の姿が見えるように思ったのは、俺の錯覚だっただろうか。俺は、もちろん二度とその宿を訪れることもなかったし、例の悪友ともその宿の話をすることはなかった。ただ、それからしばらくの間、最後に三助が俺のことを『先輩』と呼んだのは、俺の中に先輩の面影を見ただけなのか、それとも、俺のことをそう呼んだのか、いったいどっちだったのだろう、と沈思してしまうのを自分に禁じ得なかった。