かっちゃんのことⅡ

金曜日, 8月 23, 1991

 ここのところ我ながら珍しく真面目に仕事をしていた関係で、遊びの出張ができなくていらいらしていた。いかがわしい理由をこじつけて出張しようとしてたら、すぐ誰かが余計な仕事を持ち込んだりして邪魔するのだ。どうも出張することを宣言すると邪魔する奴が現れるようなので、こっそりと出張を予定に入れといたんだけど、実際に出張できたときには、なんだか後ろめたかったりした。出張するのはサラリーマンの権利(?)なんだから、まあ、いいか、なんて、本当に俺なんか、いつまでたってもサラリーマンになりきれてないんじゃないかと疑問に思ってしまう。

 そんなわけで、名目の仕事を適当にこなした後で顔を出したこの街も、その飲み屋も久しぶりだった。
「あら、久しぶり……。」
マスターは相変わらずの、歓迎してくれてるんだかくれてないんだかわからないような感じだったけど、
「やあ……。」
カウンターの隅っこに座っていたかっちゃんが、グラス越しに俺のほうにウィンクをしてよこした。
「……。」
俺は、なんだか照れちゃって、ちょっとうなずいただけで、かっちゃんの隣にすべり込んだ。
「元気だったか?」
この前の出張から、もう三ヶ月ぐらいになるだろうか。
「なんとかそれなりにやってたよ。」
かっちゃんもきっとそれなりだったみたいで、
「かっちゃんは?」
かっちゃんは、昔と全然変わらない笑顔を向けると、ちょっといたずらっぽく笑ってみせた。
「幸介に会いたくて、全然眠れなかったよ。」
不眠症の奴がそんなにいきいきしてるはずないだろ。
「どうせ、またどこかで、いたいけな少年をひっかけて、泣かせてたんだろう。」
そういえば、俺も、昔は少年だったなあ、なんて、センチメンタルな気分になる。
「俺が、幸介以外の奴に手を出したりするわけがないだろ?」
かっちゃんはちょっと真剣な目付きをしてみせるけど、
「ふうん。」
俺は、あんまり信じちゃいなくて、
「しょうがないなあ。」
かっちゃんはちょっと不機嫌なふりをする。でも、もし、かっちゃんがそれなりにそういうことがあったとしても、俺は今さらどうこう言うつもりもないし、と言うよりは、言ってみても仕方がない、とあきらめていると言ったほうが正確かもしれない。だいたい、こうやって待ち合わせの場所に現れてくれるぐらいだから、かっちゃんにもし何かあったとしても、それなり程度のことしかなかったんだろう。

 何とか出張できそうになった前日の夜に、
「もしもし?」
俺がかっちゃんの部屋に電話を入れたとき、
「もしもし?」
俺は、かっちゃんの声の落ち着いた表情になんだかほっとした。
「俺だよ……。」
ちょっと不安な気持ちで、そんなふうに言ってみるけど、
「なんだ、幸介か。」
すぐ、俺だ、ということをわかってくれたので、ちょっとうれしかった。
「明日、俺、出張なんだ。」
だから、時間を作ってくれ、と、そこまでは言い切れない俺。
「泊まりか?」
俺は、かっちゃんの声に自分のかっちゃんへの想いを聞いてしまう。
「そうだよ……。」
本当は、泊めてくれ、と言うべきなんだろうけど、やっぱり自分からは言い出せない。
「俺の部屋に、来るんだろ?」
だから、かっちゃんが当然みたいな言い方をしてくれると、俺は、すごくうれしいんだけど、
「うん、行っていいんなら……。」
素直にはなりきれない。困ったもんだと、我ながら思う。

 ちょっと酔っているのか、かっちゃんのほおがほんのり赤いような気がする。俺のことをじっと見つめてから、
「一度、幸介と暮らしてみたかったなあ。」
なんて、いきなり変なことを言い出すんだから、やっぱり酔ってるんだろう。でも、学生の頃とか就職したばかりの頃なんかは、かっちゃんがよく俺の部屋に来たりしてて、あれは、もう、ほとんどいっしょに暮らしていたようなもんだと思う。
「かっちゃんなんか、よく俺の部屋に入り浸ってたじゃないか。」
実際、恐ろしいことに、かっちゃん専用のマグカップとか、かっちゃん専用の枕なんていうのがあって、学生の頃はもちろんだけど、就職しても、会社から直接、俺の部屋に帰ってくるとかいうこともあった。
「あれは、暮らしてたうちにははいんないよ。」
じゃあ、あれはなんだったんだ?
「そうかなあ。」
俺は、かっちゃんといっしょに暮らしてるような気になってたけど、本当は単なる『ままごと』だったのかなあ。
「だって、俺が自分の部屋に帰っても、幸介は何も言わなかっただろ?」
そりゃ、かっちゃんだって、いろいろあるだろうし、自分の部屋に帰るのは当たり前のような気がするけど……。
「でも、次の日には、俺の部屋に来てたじゃないか。」
俺がちょっと怒ってみせると、
「いっしょに暮らしてたら、そういう訳にはいかないんじゃないか?」
かっちゃんは、ちょっと皮肉に微笑ってみせる。
「そういうもんなのかなあ……。」
ひょっとしたら、あの時間はかっちゃんにとってそんなに愉快な月日じゃなかったんだろうか?

 俺は、かっちゃんの言葉の意味をどう解釈すればいいのかわからないまま、グラスをちょっと傾ける。
「あーあ……。」
そんな俺の心を見透かすようなかっちゃんのため息に、どきっ、としてしまう。
「……。」
俺には、それに答える言葉が思いつかない。
「さっさと転勤なんかになっちゃって……。」
確かに、俺が転勤になっちゃって、その『暮らし』もそんなに長くは続かなかった。
「だって……。」
一応は、俺だって、いろいろ悩んだんだけど、結局、仕事を放り出してしまうだけの度胸はなかった。
「俺は、しばらくどうしようもなかったんだぞ。」
何気ないかっちゃんの言葉が自分の心の深いところにしみるのを、俺は感じた。
「でも、しょうがないんだろうな。」
かっちゃんが、あきらめたように言う。そんなこと言ったって、だいたいが、男同志なんていうのは結婚できるわけじゃないし、一生一緒に暮らすなんて、夢のまた夢なんじゃないだろうか。……でも、そんなことしか思いつかない俺って、かわいそう。