かっちゃんのことⅡ

金曜日, 8月 23, 1991

 酔ったついでに言ってしまうと、ときどき、俺は、自分が本当にかっちゃんと寝たいのかどうかわからなくなる。いつだって、自分の中に、『男が欲しい』という感覚がどろどろしているのは感じるけれども、それは、別に対象がかっちゃんじゃなきゃいけないということじゃない。こんなことを言うとかっちゃんになぐられちゃうかもしれないけど、たぶん、それなりの場所で手近にいる、見ず知らずの男が相手だったとしても、『男が欲しい』という感覚はとりあえず誤魔化すことができるんじゃないかと思う。実際、あんまり大きい声ではいえないけど、それに近いことが今までに何回もあった。だから、逆に、かっちゃんに『そういうこと』があったとしても、俺には非難するための言葉が見つからないのかもしれない。

 そんなことをぼんやりと考えていたせいか、
「もう、帰ろうか。」
と、かっちゃんに言われたとき、
『どこへ?』
なんて思ってしまって、さすがに声にはしなかったけど、結構ひんしゅくものだったりする。
「うん。」
あくまで、素直な俺は、かわいくうなずいてみせたから、まさか気づかれなかったと思うけど、
「どうかしたのか?」
かっちゃんが、ここまで俺の顔色に敏感だと、少なからず複雑な心境になってしまう。本当は、赤面してしまうくらいうれしいことなんだろうけど、でも、それだけわかってもらえているということは、逆に、ドキドキして相手の反応を待つような瞬間というのは、俺とかっちゃんとの間には、もうあり得ないということなのだ。
「え?どうもしないよ。」
俺は、何気ないふうでそう答えてから、自分の考えのわがままさにちょっと反省してしまった。

 こんなふうに離れて暮らす者にとって、相手への想いだけを抱いているだけでは我慢できない時があるとしても、それは、どうしようもないことなんじゃないだろうか。二人でいるときに見せてくれるかっちゃんの誠意を、俺と離れている間も持ち続けて欲しいと思うことは、ぜいたく過ぎると思うのだ。だいたい、そんなことをかっちゃんに要求できるだけの誠実さを俺自身が持っているかというと、さっきの『男が欲しい』ときの処理にしたって、全然誠実なんてことはなくて、自分でも感心してしまうくらい節操がないというか、まあ、真面目に考えると我ながら情けなくなってしまうので、あんまり考えないことにする。
「俺のこと、どう思ってる?」
だから、かっちゃんが俺の耳元でそうつぶやいたとき、俺は、どきっ、となってしまったのだ。
「……。」
笑って誤魔化そうかとも思ったけど、
「正直に言ってみな。」
かっちゃんが本気らしいので、
「うーん。」
俺も、正直に答に詰まってみせた。

 俺があんまり難しく考えすぎていると思ったのか、かっちゃんは、
「キスしていいか。」
そう言い換えてくれた。俺は、シビアな質問に答えなくてもよくなったことにほっとして、素直に目を閉じてあごを持ち上げたのだ。
「……。」
キスなら、俺は、いつだってかっちゃんが思うとおりの俺でいられる。
「ふっ……。」
俺の唇から離れたかっちゃんは、少し微笑って、俺の目を見た。
「何だよ。」
かっちゃんが何も答えてはくれないことがわかっていて、俺はそう尋ねてみる。
「何でもないよ。」
こういうところが、かっちゃんはずるい。もちろん、それは、俺にしたって同じなんだけど。

 かっちゃんの胸に抱かれていると、もう、ずっとこのままでいたい、と思ってしまう。もちろん、思ってもしょうがないこととはわかっているんだけど、苦笑いしながらかっちゃんに惚れている自分を再確認してしまう。見ず知らずの男じゃなくて、かっちゃんに抱かれているんだから。……でも、ひょっとして、俺は、かっちゃんが好きなのでも、男が欲しいのでもなくて、この胸の暖かさに惚れているんだろうか。
「幸介?」
かっちゃんの声が俺の耳をくすぐる。
「何?」
いつの頃からだろう、こんなに近くにかっちゃんの顔があっても、照れたりしなくなってしまった。最初の頃は本当に照れくさくて、顔をそむけてしまうか、笑い出してしまうかの、どっちかだったのに……。
「好きだよ。」
かっちゃんはたぶんそう言ったんじゃないかと思うけど、かっちゃんの微笑った表情に気を取られていてよくわからなかった。
「うん。」
だから、俺の返事も、まるでため息みたいで、かっちゃんにはよくわからなかったに違いない。

 サラリーマンをやっていると、なぜだか朝は時間がなくて、かっちゃんとろくに話もできないまま別れなきゃならない。
「俺、朝飯はいらない。」
ネクタイを結びながら俺がそう言っているのに、かっちゃんは、
「駄目だ。トーストの一枚くらいは、食って行けよ。牛乳もちゃんと飲むんだぞ。」
絶対に許してくれない。
「時間に遅れちゃうよ。」
ぐずぐず言ってると、かっちゃんに、
「そんなことを言ってる暇があったら食えよ。」
トーストを口に押し込まれてしまった。
「う……。」
あせっている俺を、妙にうれしそうに見ながら、かっちゃんもネクタイを結んでいる。
「じゃあ、気をつけて行けよ。」
俺が靴をはこうとしていると、俺の尻を触ったりする。
「……俺、かっちゃんの人間性が信じられない。」
ぶつぶつ言おうとしたら、かっちゃんの顔が不意に近づいてきて、
「また、電話する。」
ぼそっ、と言った。
『それから……?』
俺は、無意識のうちに、ほんのちょっと首を傾げてみせたんだけど、かっちゃんは全然気がつかなくて、すぐうつむいてしまった。きっと、俺のご機嫌とりよりも、ネクタイの結び目のほうが大事なんだろう。

 俺は、かっちゃんがキスしてくれるのかと思って期待してたのに、全く無視されちゃったのでがっかりしたけど、それでも、気を取り直して、出かけることにする。
「じゃあ、ありがとう。」
俺が、愛想よく言ってやっても、
「ああ。」
かっちゃんは、素気ない。まだネクタイが気になっているふうのかっちゃんが、ちょっと寂しそうに見える。なんとなくその気持ちもわかるから、俺は、それ以上ぐずぐずせず、サラリーマンの顔をしてかっちゃんの部屋を出た。