そんなわけで、化学の興奮が醒めやらぬまま(考えてみれば、化学の授業で興奮するっていうのも恐ろしい話だけど)、俺が自分の席で、ぼー、っとしていると、
「おい、帰ろうぜ。」
かっちゃんが俺の頭をたたいた。
「痛いなあ、なにするんだよ。」
せっかく、広瀬先生の余韻にひたってたのに……。
「そうか、じゃ、英語のノートは俺がもらっといていいんだな?」
あー、忘れてた。
「おまえ、人からノート借りといて、そういう言い方はないだろ?」
俺があせってるのも無視して、かっちゃんはさっさとカバンを持って教室から出て行こうとしてるのだ。
「ちょっと待ってくれよ、俺も帰るから……。」
教科書と弁当箱を大急ぎでカバンに放り込む俺を、
「早くしろよ……。」
かっちゃんは、冷たい目付きで見てる。
「帰るぞ。」
俺が、なんとかカバンに詰め込み終わると、さっさと歩き始めてしまうのだ。
「待ってくれったら。」
俺は、カバンを抱えて追いかけるんだけど、
「しょうがねえなあ。」
階段のところで、やっと、かっちゃんに追いついた。
「今日は、クラブはないのか?」
かっちゃんは、テニス部の優秀な部員で(本人が言ってるだけだから、俺なんか全然信じちゃいないんだけど)、放課後っていうといつもはテニスボールを追っかけてるのだ。
「試験の前なのに、クラブなんかやってられるかよ。」
それもそうだけど、
「どうせ、勉強なんかしないくせに、よく言うよ。」
本当にいつ勉強してるんだろう、と感心してしまう。
「俺ってさ、本当は、すげえ勉強が好きなんだ。」
勝手に言ってろ。
「ちゃんと英語のノートは返してくれよ。」
何がしようがないって、英語だけは、真面目に教科書とノートを見比べながら、復習するしかしようがないのだ。
「さあ、帰ろうぜ。」
言われなくたって、帰るよ。
「……。」
だから、いい加減、俺の腕を離して欲しいんだけど……。駅についてからのかっちゃんの態度がどうも不審だったりする。
「ほら。」
ほら、じゃなくて、俺は、こっちのホームの電車に乗るんだよ。
「離してくれなきゃ、帰れないだろ?」
いてて、引っ張るなよ。
「なに、馬鹿なこと言ってるんだよ。いっしょに帰ろうぜ。」
馬鹿なこと言ってるのは、どっちだよ。俺が、カバンを抱えてもたもたしてるうちに、俺の乗る電車とは反対側のホームに、連れて行かれてしまった。
「なんだよ、……痛いなあ。」
かっちゃんは、馬鹿力で、僕の家とは反対方向の、かっちゃんの乗る電車に引きずり込もうとするのだ。
「駅員のおじさんに怒られちゃうよ……。」
この前なんか、ふざけてて線路に落っこちちゃって、大目玉だった。だから、僕もあんまり真剣には抵抗できなくて、
「あーあ、ドアが閉まっちゃったよ。」
えー、いったいどうしようって言うんだよ。
「そうむきになるなよ。俺の家で、試験勉強やろうぜ。」
何が試験勉強だよ。僕は、自分の家に帰って孤独に試験勉強がやりたいんだ。まじで俺が憤慨してるのに、かっちゃんは、
「いい天気だなあ。」
電車の窓の外の景色を平和そうにながめたりして……。まったくしょうがないなあ。試験勉強くらい、一人でできないのかよ。
「なに怒ってるんだよ、幸介。」
怒ってなんかいないよ、俺はあきれてるの。
「おまえ、俺の家に来るの、久しぶりだろ。」
そうかなあ。
「この前来たの、ゴールデンウィークのときだぜ。」
へえ、そんなこと、よく憶えてるなあ。
「そうだっけ?」
そう言われると、子供の日にかっちゃんの部屋で、柏餅なんかを食ったような気がする。高校生にもなって、いまさら柏餅食ってもしょうがねえなあ、なんてのんびりしてた。
「よし、今日は、俺が幸介の家庭教師をしてやろう。」
そういうことを勝手に決めるな、って言うの。だいたい、かっちゃんなんかに助けてもらわなくても、ちゃんと試験勉強くらいできるんだから。
「家庭教師?」
そうしたら、かっちゃんなんか、
「化学で赤点をとりたくないだろ?」
俺のことを脅迫したりなんかするんだ。
「え?!」
俺は、思わず聞こえない振りをしたけど、
「広瀬先生に見捨てられちゃってもいいのか?」
かっちゃんは、そんなことを俺の耳元でささやいたりして、ひょっとして、俺に恨みでもあるんじゃないかと、真剣に考え込んでしまった。
かっちゃんのこと 3
土曜日, 4月 13, 1991