ダブルベッド

日曜日, 11月 1, 1987

 彼の寝息が、すう、すう、と聞こえてくる。僕よりも先に、彼が眠ってしまうなんて、珍しいことだ。僕が、彼の穏やかな寝息を聞くなんて、この前はいつだったか、思い出せないくらい滅多にないことだ。もちろん、本当のところは、彼も僕と同じ頃に寝入ってしまっているのかもしれないけど……。それにしても、変にうたた寝をしてしまったから、寝付けないのかなあ。意外と僕って不眠症だったり、っていうことは間違ってもないなあ。
「後ろから抱き締めたい、なんて、変なこと言うから、眠れなくなっちゃったよ。」
今度からフライパンを握ってるときは、気をつけなくちゃいけないな、なんて、ごそっ、と彼の方に寝返ってみた。それでも彼は、相変わらず、すやすやと僕のベッドでおやすみの様子だ。結局、今晩は僕が彼のベッドを占領してしまった。ひょっとして、ベッドが変わったから眠れないだったりして……。
 例えば、枕が変わってしまったら眠れない、なんていうのは、とりあえず、繊細さの証拠なんだろうけど、でも、あんなに自分のベッドにこだわってみせた彼でさえ、僕のベッドで、すやすや寝息を立てていたりする。僕なんか、変にうたた寝をしたせいでなかなか寝付けないのを不眠症のふりをして誤魔化そうとしてたりする。決して、繊細さを置き忘れてしまったわけではないと思うんだけど、枕にこだわるような類の繊細さは、いつのまにかなくしてしまったのだ。繊細さ、なんていう言い方が文学しすぎてるんなら、青さ、なんていうやたらダサイ言い方だっていい。もっとはっきり言えば、僕に関する限りは、腕枕をねだらなくなった、ということと等価なんだろう。
 腕枕をしてもらって相手の体温に暖めてもらっていること、が、愛だ、なんて、きっと古き良き時代の錯覚でしかなかったんだろうけど、それでも、やっぱり、誰かの腕の中にいればなんとなく安心していられた。相手の肩にもたれかかったり、背中から抱き締めてもらったりすると、それだけで満足していられたのは、皮肉な言い方をすれば、その人と話をしなくてもよかったからに違いない。
「……。」
体だけは密着していても、きっと、二人の時間は、別々に流れていたんだろう。だって、その流れが、僕の横で健康そうな寝息をたてている彼にたどりついたわけじゃ、ないんだから……。
 彼は、出会った時から、僕が甘ちゃんでどうしようもないのをよくわかっていたにもかかわらず、
「腕枕なんて、重くてうっとうしいから、好きじゃないんだ。」
なんて、てんで相手にしてくれなかった。
「ちょっとの間くらい、いいじゃないか。」
口をとがらせてすねたポーズの僕を、ほおづえをついた彼が、すました顔で見ていた。
「だって、腕枕したままじゃ、寝苦しくて仕方ないだろ?」
そりゃそうだけど……。
「だったら、最初からちゃんと寝た方が、すっきりするじゃないか。」
結局のところ、僕は、彼の変な理屈に誤魔化されてしまって、仕方なく、彼の肩をつっついたり、耳たぶをつまんでみたりしながら、泣き寝入りの毎日だったのだ。
 なんて言うと、きっと彼に笑われちゃうだろうけど、やっぱり、ちょっと寂しいような気はした。
「腕枕のかわりに……。」
なんて言って、彼は、僕の手を握っていてくれたりしたけど、あれは、本当は、単に僕のいたずらに辟易したからというだけのことに違いない。そんなことを思い出して、僕は、そっと手を伸ばすと、眠っている彼の手の中に僕の手をすべり込ませてみた。
「……。」
暖かい彼の手の感触に、最近はこんなふうに手を握ってもらうことさえ、ねだらなくなってしまったんだなあ、なんて変なことに感心してしまった。
「どうした、眠れないのか?」
思いがけなく強い力で手を握り締められて、僕はびっくりしてしまった。
「なんだ、起きてたの?」
すやすやと眠ってるふりをして、僕の様子をうかがっているなんて、ひどいなあ。
 彼は薄明かりの中で、ゆっくりと目を開けて、僕の方に寝返りをうった。
「ちょっとうとうとしてたけど、手なんか握られたら、ぐっすり眠ってたって目が覚めちゃうよ。」
握った、なんて、ちょっと触っただけなのに……。
「……。」
僕は、指先を動かして、彼に反論を表明してみせた。でも、彼は、それには全然気がつかないふりをして、
「早く寝ないと、明日の朝、起きれないぞ。」
僕の手を、ぎゅっと握って、無理矢理、僕の指先を大人しくしてしまった。
「いいんだ、起きられなかったら、遅刻していくから……。」
指先の反論ぐらいでは効果がなかったので、やむを得ず、口先に訴えることにする。
 彼は、うるさくなりそうな気配を感じたのか、素早く上半身を僕の方に乗り出してきて、
「……。」
キスという実力行使に出た。キスしてくれるのはうれしいんだけど、そんなにすぐ離れてもらっては、かえって不満になってしまう。あんまり素気ないキスだったので、抗議の意味を込めて、
「遅刻したって……。」
もう一度、すねてみせようとした。そうしたら、彼も、さっきのキスが僕を黙らせるには不充分だったことに気づいたらしくて、
「……。」
今度は、念入りに僕の唇を犯すことにしたようだ。舌先で僕の唇をもて遊びながら、僕がもう反論する気をなくしてしまうだろうぐらいの十分に長い時間、僕の上におおいかぶさっていた。そうして、僕の唇からゆっくり離れていきながら、
「遅刻するのは勝手だから、好きにしろよ。」
例によって、素気ない口調を僕に寄こしてから、彼はまた僕のベッドに横になってしまった。
「いいよ、起こしてくれなくったって……。」
でも、彼がまだ僕の手を暖かく握っていてくれたので、とりあえず、それ以上のことは言わないことにした。それに、本当に明日の朝、僕が寝坊したって、彼が、てきぱきとトーストに目玉焼きを作ってくれて、紅茶の匂いのするダイニングキッチンから、
「いい加減に起きないと、本当に遅刻しちゃうぞ。」
かなんか、怒鳴ってくれるのは、わかっているから……。