僕のテディ・ベア -D

木曜日, 10月 31, 1985

  もう思い出したくもないぐらい昔の話だけど、一応は、世間並みに、つき合ってる、なんて公言できる男がいたりした頃もあったりしたのだ。たぶん、あのころの僕は若過ぎたのに違いない。もっとも、いまだにその言い訳が実感を伴わないところに問題があると思う。済んでしまったことをとやかく解説してみても、空虚しいことだけのことだから、言わないほうが賢明なんだろう。でも、
「もう、やめようよ。」
と僕が言った時の、奴の意外そうな表情が、僕には理解できなかった。僕が、こんなに飽きてしまうほど疲れてるのに、奴は、全然、思いつきもしなかったことを知って、結局は無駄だったんだ、ということだけが理解できた。
「どこが悪かったんだよ。」
奴がつらそうな顔になったとき、僕は、仕方なく、
「別に、そういうわけじゃないんだ。」
と、顔をそむけてしまった。それをわかってくれるぐらいなら、と、苦々しい思いだったのだ。
  ちょっと余計なことまで言い過ぎちゃった感はあるけど、もちろん、奴のことは、この際、全然関係なくて、彼と初めて会ったのがまだ奴とじゃれ合ったりしていた頃のことだというだけの話なのだ。奴のことを思い出すたびに、彼と初めて会った時のことを思い出して、そして、そのたびに、彼との最初の会話を思い出そうとするんだけど、いつも失敗してしまう。でも、
「初めまして。」
も、
「こんにちは。」
も、彼にとっては、それほど大して意味を持ってないに違いない。僕だって、それに対して彼が、
「やあ。」
と言ったのか、
「よろしく。」
と言ったのか、あまり興味がない。それどころか、僕のほうから話しかけたのか。彼が先に声をかけてくれたのか、本当は、それさえもよく憶えていないのだ。
  ただ、その時から、僕は彼に好意を持ち続けていて、彼も、僕のことを嫌いではないらしい、ということだけが、僕の意識の裏側にこびりついている。こんな控えめな言い方をやめてもって現実的な言い方をするなら、僕は、彼と最初に会った時から、ずっと、彼に対して発情していて、彼も、僕とやりたいと思っているらしい、なんて、まさか、いくら何でも、やっぱり言えないよなあ。
「知くんは、今晩どうする?」
こういう台詞っていうのは、考えてみれば、実に露骨な誘い文句だと思うけど、
「ちょっと、待ち合わせだから……。」
まだ、僕は、奴に拘束される立場にあったから、そう断らざるを得なかった。
「そうか……。」
全然残念そうでなく、ため息をついてみせるところが、僕は嬉しかった。
「……。」
結局、それ以上、いうべき言葉を思いつかなくて、
「じゃあ、俺は、このへんで。」
という彼の言葉にも、沈黙を守るしかなかったのだ。
  そして、思い出すたびに悔しいのは、どうして、さっさとこの時に彼と寝てしまわなかったのか、ということなのだ。
「僕って、律儀なんだなあ。」
なんてことは、もちろんなくて、奴と『つき合ってる』と称していながら、裏では、というより、ほとんど公然と浮気をしていたのだ。もっとも、奴なんかは、僕よりはるかに派手に遊び歩いてたらしいけど。
「それなのになあ……。」
結局、僕は、答えがわかってても、わからないふりをしていなきゃならないのだろう。
「たまには浮気してるんだろう。」
彼に冗談を言われても、否定でもなく、まして肯定でもなく、
「え?!」
よくわからないよ、っていう顔をしてるのが一番無難だと、いったい誰が教えてくれただろうか?
  自分自身に対する苦しい言い訳なら、縁がなかったんだ、で済むけれども、僕は彼に対して、何て言って言い訳すればいいんだろう。
「本当は、好きだったんだけど……。」
好きだったんだけど、奴がいたから、と、彼は聞くだろうなあ。
「僕って、本当な純情だから……。」
公然と浮気をするから純情だ、なんて、あまりにも立派な理屈だから、僕だって笑ってしまう。
「勇気がなくて……。」
なんて、本当に初心な少女みたいで、思わず赤面ものだと思う。
「今度やろうね。」
今日じゃないところが、いかにも僕らしいんだろうけど、僕に言えるのは、このぐらいのところが精一杯に違いない。本当に、僕って純情で初心なんだからなあ。