兄貴 1

日曜日, 3月 31, 1985

 ちょっと熱めのシャワーを頭から浴びると、泡だらけの体から、泡がすうっ、と流れ落ちていく。白い泡といっしょに、体に粘りついていた、街の中の喧噪や雑踏も、流れ落ちて行くような気がする。感情を重くしていた余分なものが流されるから、体が伸びやかさを取り戻してくのだろう。その反面、純粋な疲労感がむき出しになって、思っていたよりも疲れているらしい自分に気づいたりもするのだ。
「ふうっ……。」
目の粗い、ごわごわしたバスタオルで体中の水滴を拭き取ると、やっと、『在るべき場所』に帰ってきたような安心感を覚える。やっぱり、ここが自分の生活のある場所なんだ、ということを考えたりする。『ここより他の場所』にあこがれてみせるくせに、と、つい皮肉な気分になってしまって、思わず苦笑する。
 もう一度、ごしごしとバスタオルで頭を拭いてから、
「……。」
湯気で曇った鏡を、きゅっ、と手で撫でる。と、風呂上がりにしては、珍しく、いくぶん不機嫌そうな自分の顔を見つけて、ちょっとやばいかな、と不安になる。兄貴ときたら、どういうわけか、僕の不機嫌にだけは、めいっぱい敏感なんだから……。ひょっとして、不機嫌にだけ、気づくふりをしてみせてるんだろうか。もしそうだとしたら、つまるところ、兄貴のさり気ない言葉があまりに複雑すぎて、僕の理解の範囲を超えてしまっているのか、それとも、僕が無邪気になりそこねているのか、のどちらかなんだろう。兄貴はどう思っているのか知らないけれど、僕としては、自分がかなり無邪気な方だと思ってるんだけどなあ。
 バスタオルを腰に巻いただけで、バスルームを出て、冷蔵庫を物色した。
「あ……。」
実を言うと、ここしばらく、僕は黒ビールなどというものに目がなかったりするのだ。いつもビールを飲むのに使っている、どてっ、っとした感じのステンレス製のビアマグに、ごぼっごぼごぼっ、とビールびんを傾けると、くすぶっていた不機嫌も、どこかへ行ってしまうから、我ながらあきれてしまう。だから、
「そんな格好でいると、風邪を引くぞ。」
なんていう、兄貴の素っ気ない言い方も、笑って無視できてしまうのだ。
「風邪を引いて、兄貴に看病してもらうのもいいな。」
ほら、決まって兄貴は聞こえないふりをするのだ。
 結局、僕は、ふん、か何か言って、兄貴への不満を表明してから、パジャマを着た。
「したに何も着ないのか?」
これだからなあ。見てないふりをして、しっかりみてるんだから……。
「うん……。」
寝るときは、絶対素肌にパジャマがいい。兄貴の腕枕があると、もっといいんだけど、なんていうことは、残念ながら素直じゃない僕には、とても口に出せない。
「兄貴、……どいて。」
そのかわりに、ちょっと邪険に兄貴を押しのける。だって、兄貴がベッドの真ん中を占領してるから、僕のもぐり込む場所がないのだ。ベッドの横の小さいライティングデスクから、さっきのビアマグを取り上げて、残りの黒ビールを一気に、のどに流し込んだ。
「……。」
ちら、と、手元の雑誌から視線をあげた兄貴の表情が、実に不吉だったりする。
「よく黒ビールなんか飲むよな。」
むっ!
「黒ビールのどこがいけないんだよ。」
僕も多分にガキだから、火に油だったりする。
「黒ビールってさ、しょう油みたいな味がしないか?」
よりによって、こういう言い方はないんじゃないかと思うのだ。
「……。」
あんまりな言い方だから、とっさに言い返す言葉が思い浮かばなくて、思わず絶句してしまう。と同時に、実に遺憾なことではあるんだけど、
「そうか、この味は、しょう油だったんだ。」
と、納得もしているのだ。
「僕、もう、黒ビールのことを、素直な気持ちでは飲めないよ、兄貴がそんな変なことを言うから。」
僕の唯一の楽しみにケチをつけておきながら、オレは何にも知らないよ、みたいな顔をしているのが悔しい。
「きっと、黒ビールを飲むたびに、兄貴の言ったことを、一生、思い出しちゃうよ。」
ひどい、ひどすぎる。僕の台なしになった黒ビールの一生をどうしてくれるんだ。なんて言ってるのは、でも、口ばっかりで、結局は、抗議するふりをして、兄貴にじゃれているんだから、僕も困ったもんだよなあ。