兄貴 2

日曜日, 3月 31, 1985

 こんなふうに、兄貴の暖かい体にもたれて、ぽけっ、としていると、昼間の疲れのせいか、すぐうとうとしてしまう。僕なんかは、拾われてきた子犬みたいなものだから、臆病そうに怯えてみせても、実は、誰にだってすぐなついちゃうのだ。
「知……。」
兄貴は、思い出したように、読みかけの雑誌から顔を上げて、僕の胸に手を回した。
「なに……?」
返事をするふりをして、ちょっと体を起こしたんだけど、本当のところは、兄貴の指先がパジャマの布越しに、胸の乳首をいたずらしてるのがくすぐったかったのだ。
「……。」
兄貴がおおいかぶさるようにして、言葉の続きを邪魔してしまう。
 ゆっくりと離れていった兄貴の舌は、苦い残り香の味がした。僕は、いわゆる『煙草の煙が苦手です』だから、兄貴が煙草を吸うと露骨に顔をしかめてみせたりするんだけど、兄貴の柔らかい舌に残った煙草の味だけは、何となく許す気になってしまう。その、ちょっと金属的な味が、条件反射的に僕の下腹部に響いて、その部分を堅くしてしまったりする。ひょっとして、煙草っていうのは、媚薬の一種なのかもしれないなあ、なんて感心していると、僕の唇に軽く兄貴の唇が触れて、
『もうちょっと……。』
キスしてくれればいいのに。いくら兄貴にだって、そんなことは言えないけど、兄貴と触れ合っていたい、といつも思う。それとも、触れ合っていたいと思う兄貴にだからこそ、思っている通りに言えないのかもしれない。僕だって、それなりの場所に行けば、それなりに、わいせつな言葉を平気で口走ったりしてるわけだから。
 なんだかんだ考えながら、僕は、ちょっと名残惜しそうに、目をつむったままだったりしたのだ。そんな全く警戒心のないところへ、
「知……。」
兄貴は、卑怯だから、不意打ちを食わせたりする。
「男の匂いがするぞ……。」
え?!
眠気も、兄貴の唇に対する心残りも、いっぺんにどこかへ行ってしまった。
「お、男って……?」
兄貴は、そんな僕のうろたえぶりを、おもしろそうに見ている。
「どこかで浮気してきただろう。」
ぎくっ!
「う、浮気なんて……。」
どうして、兄貴が知ってなきゃいけないんだよ……。
 後でよくよく反省してみれば、こんなふうにおたおたとうろたえてみせるなんて、兄貴の思うつぼだったわけで、本来なら、知くんお得意のポーカーフェイスかなんかで、
「何のこと?僕、よくわからないよ。」
ぐらいのぶりっ子をするべきだったのだ。でも、あんまりタイミング良く、兄貴が核心に迫るもんだから、僕は次の台詞を探して、あー、とか、うー、とかのかなり間抜けな状態になってしまった。兄貴は、そんな僕を見ながら、
「終わった後で、よくシャワーで洗わなかったんだろう。」
なんて、くすくす笑ってみせたりするんだから、かなりひどいと思う。
 まあ、事後のシャワーには、さっきの快感の痕跡がないかどうか確かめて、確実な証拠隠滅を図る、という意味もあるわけだけど、僕にとっては、それ以上に、形而上学的色彩の方が濃いわけだから、ほとんど神経質とも言えるぐらいに石鹸を無駄遣いするのだ。それに、よく考えてみれば、帰ってきてからも、すぐ、シャワーを浴びたから、間違っても匂いなんか残ってるはずがない。
「だって……。」
だからといって、まさか、よく洗ったのに、なんて言うわけにもいかないから、その次の台詞を口にすることができなくて、僕は、再び、絶句してしまう羽目になった。
「『だって』、どうしたんだ?」
ほとんど白状しちゃったようなものだから、兄貴はニヤニヤなのだ。
 仕方ないから、僕は、かなり手遅れの感もあるんだけれども、
「だって、兄貴が、急に変なこと言い出すから、焦っちゃって……。」
やや引きつり気味のポーカーフェイスで武装することにした。
「焦ることないじゃないか。ゆっくり楽しむだけの時間はあったんだろう?」
こういう皮肉を平気な顔で言うから、兄貴は恐ろしいんだけど、僕は、あくまで無視して、
「楽しむ、って……?」
かろうじて、余裕の残っているところを見せた、つもりだった。
「……。」
実際問題としては、兄貴の意味ありげなニヤニヤが気にはなっていたのだ。
 でも、もっと恐ろしいのは、こういう深刻な話題を、僕の体に対する愛撫に絡めてくる、兄貴の性格なのだ。
「知は、俺が、何にも知らないと思っているんだろう……?」
優しそうな表情と、言っている内容が、全然一致していない。
「うっ……。」
しかも、指先では、僕の乳首とか、首筋のあたりをくすぐっていたりする。こんなことをされてると、そのうち不感症になっちゃうんじゃないかと不安なんだけど、今のところそういう兆候はなくて、僕は、変な方向に堅くなっちゃったものを持て余してる、ということなのだ。