兄貴 4

日曜日, 3月 31, 1985

 ねっとりした快感の名残に息を弾ませている僕の耳を、
「かわいいな。」
彼の柔らかい声がくすぐった。
「……。」
そんなこと言われても、返事ができないから、曖昧に苦笑した。
「あ、笑ったな…… !」
彼が、ちょっと気を悪くしたらしいので、僕は、
「だって、かわいいって言われても……。」
正直に言った。そうすると、彼は、上半身を起こして、僕をのぞき込むようにしながら、
「こんなにかわいいくせに。」
と、僕の鼻を、ちょっとつまんでみせた。
「……。」
僕は、しょうがなくて、今度は、顔をしかめてみせると、彼はちょっと笑い顔になった。
 こんな場所でのことは、完全に『遊び』と割り切ってるつもりだけど、時々、快感の慣性が大き過ぎて、相手への心残りを無視してしまえないことがある。快感への心残り、と言うべきなのかもしれないけれども、
「……。」
例えば、何気なく置かれた胸の上の彼の手が、どうしようもなくくすぐったいのは、やっぱり、僕の精神状態に問題があるのに違いない。
「どうした?」
あんまりくすぐったいから、我慢できなくて、身をよじってしまった。
「くすぐったい……。」
気になり始めると、余計くすぐったくなってしまって、どうしようもなくなってしまうのだ。
 いつもは、どちらかというと不感症気味だと自負しているのに、どうして今日に限ってこんなに感じてしまうんだろう。
「ごめん、ごめん……。」
彼は、あわてて、手を肩のほうに引き上げてくれた。
「駄目……。」
彼の手が移動しただけで、くすぐったくて仕方がない。やっぱり、さっきの快感の慣性で全身が敏感なままに取り残されているのかもしれないなあ。
「そんなに、くすぐったがってちゃ、どこにも触れないじゃないか。」
彼のあきれたような表情の声が、なんだか嬉しい。
「だって、……我慢しようとすればするほど、くすぐったいんだもん。」
彼の胸は、僕がもたれかかるのに、適度に厚みがあって、なにより、暖かかった。
 彼の腕が、ゆっくりと肩を抱いてくれた。その穏やかな重さは、彼の優しさを象徴しているようだ。
「このぐらい、我慢しろよ。」
あんまり真剣な言い方だから、思わず笑ってしまう。
「こら、我慢しろったら。」
彼の勘違いが嬉しくて、優しい腕の中で、ちょっと身をよじってみる。
「駄目だ……。もう放してやらない。」
ぎゅうっ、と抱きしめられると、彼が、ほんの数十分前に出会ったばかりの行きずりの男だ、ということも、気にならなくなってしまう。
「かわいいな。……好きだよ。」
彼の声が、耳元でそっとつぶやく。
 そんな他愛のない台詞でも、こういう状況で聞くと、なんだか、妙にマジになってしまったりして、彼の肩に鼻面を押しつけるような格好をして甘えてみせたりする。誰かの暖かい胸を感じているだけで満足してしまうのは、実に悪い癖だと思うのだけれども、暖かさを優しさと誤解するのは、ごくごくありきたりの少女趣味でしかない。
「優しい男なら、どこにだっているのに……。」
彼のみせる優しさが、単に、寂しさの裏返しに過ぎないとしても、僕には、それで充分なのだ。動機はともあれ、彼の逞しい胸は暖かい。
「兄貴じゃなくても、僕の耳元でつぶやいてくれる人なら、それでいいのに……。」
兄貴の手の中じゃなくても、僕は、下半身がしびれるような快感を感じてしまうのだ。兄貴が、単なる『時間ゲーム』のパートナーに過ぎないとしたら、僕は、どうして、こんなに容易に手に入る彼の優しさに執着できないのだろう。優しい男なら、どこにだっているのに。
 実に逆説的な言い方をするなら、たった今、僕が肌の暖かさをまどろんでいるこの男は、半年ほど前の兄貴に他ならない、ということなのかもしれない。
「君、名前はなんていうの?」
たまたま、時間と空間を共有する機会があったから、僕は兄貴を知ったんだ。もちろん、最初に会ったときには、兄貴のことを、それこそ、名前さえ、知っちゃいなかった。
「……。」
最初に兄貴と会った時は、どんなことを話したんだろう。少なくとも、彼みたいに、僕の名前を尋ねたりしなかったような気がする。そう思うと、僕は、おかしくてたまらなくなった。
「どうしたんだ?」
ちょっと気を悪くしたらしい彼の顔を見て、僕は、いい加減に帰らなくちゃいけないということを思い出して、彼の優しさから立ち上がったのだ。