兄貴 5

日曜日, 3月 31, 1985

 眠っている間は、時間の流れが逆転したり、止まったりしてるんじゃないだろうか。もし、時計がどんどん逆転していって、24時間前から、また、今日が始まったとしても、きっと、僕なんかにはわかりっこないと思う。それが、目を覚ました瞬間から、僕にとっての時間は、振り子の誠実さを取り戻す。その唐突さに、毎朝、だまされたような気がするのだ。
「……。」
目覚まし時計の音で目を覚ますときはそうじゃないのだけれども、眠りたいだけ眠って目が覚めた時は、しばらくの間、頭の中が白色雑音だったりする。そっと布団の中の暖かい空間に身を任せていると、どこかに置き忘れていた自分が、ゆっくり戻ってくる感じなのだ。
 兄貴はまだ、すやすや、おやすみのようだから、邪魔にならないように、そっと寝心地のいい腕枕から頭を持ち上げて、窓の外を見る。
「雨だ……。」
カーテンを閉め忘れた窓の外には、灰青色の雨音が、ひっきりなしに降り続いていた。
「うん……?」
半分眠っている兄貴は、僕の言葉の意味がわからなくて、ちら、と僕を見ただけで、また枕に顔を埋めてしまう。
『雨の降っている朝は、ゆっくり時間が流れ始める。』
なんていう気障な台詞には、いつも疑問を抱くんだけど、こんなふうな日曜日の朝なんかは、何となく納得してしまったりする。
 結局、いつものように、僕が台所でごそごそ紅茶だかなんだかを淹れてる匂いを嗅ぎつけて、兄貴も、のそっ、と起き出してくる。
「おはよう。」
紅茶を、ずずっ、とすすりながら、かろうじて上はトレーナを着てるけど、下はパンツだけなんだから、兄貴の朝食マナーにも困ったもんだ。
「あ……ふ。」
兄貴が大あくびをするのを見てる僕も、実は素肌の上にパジャマという、何となくいかがわしい格好だったりする。
 最近、ちょっと、オートミール、なんぞというものに凝っているせいで、今朝も、どろっ、とした流動食が朝食だったりする。
「オートミールなんて言ったって、要するに麦のおかゆだろ?」
日本語にすればそういうことなんだけれども、例の黒ビールの『しょうゆ味』発言といい、もうちょっとまともな言い方を思いついて欲しい。
「いやなら、トーストでも焼こうか?」
語尾を強調してみせるところなんか、我ながら、完全に脅迫なんだけれども、
「知の作るものは、何でもうまいよ。」
兄貴も、実に、嫌みたっぷりだったりする。でも、僕が、ああだこうだ、いろんな食い物を、とっかえひっかえ試してみるのにつきあわされるのも、まんざらじゃなく思っているらしいふしもあるのだ。
 新鮮なせいで、やたらむきにくいゆで玉子を、僕が扱いかねていると、
「知……?」
ため息のように、兄貴の声が僕の名前を呼んだ。
「え?!」
ゆで玉子をむいている時なんかに話しかけないでくれ、と言いたい。
「雨が降ってるな……。」
ゆで玉子をむいてるときに、兄貴と天気の話なんかしてられないから、返事をしない。
「……。」
第一、雨が降っていることなんか、僕は、もうとっくに気がついていた。
「どこか、出かけようか……?」
兄貴は、あきれるぐらい変態だから、『雨の降る日はそばにいて』なんていう台詞が好きだったりする。
「……。」
だから、兄貴の突然のプロポーズにも、僕は、一瞬、考え込んでしまうのだ。
 ということは、やっぱり、兄貴が僕のことを買いかぶりすぎるのに違いない。
「せっかくの雨だから、たまには、ぼう、っとしていたい。」
例えば、『俺のこと、どう思う?』なんていう台詞に、『好きだよ。』という恐ろしく陳腐な台詞が似合うように、兄貴が僕に期待したのは、こんなふうな言い方だったのだろう。でも、とっさにそんな組み合わせを理解できるほど、僕は老齢じゃないし、何よりも、兄貴の言わせたいとおりに口走るなんて、ちょっとしゃくに障る。
「出かけるんなら、僕、シャワーを浴びてくる。」
こういうふうにしか言えない僕は、やっぱり、無邪気ではあり得ない。
「風呂が好きだなあ。」
苦笑して言う兄貴の言葉が、あまりにも表情とかけ離れているので、僕は、自分の言っていることの意味を充分すぎるほど知りながらも、つい、
「男の匂いを消さなくちゃ……。」
聞こえよがしにつぶやいてしまう。