夢精

水曜日, 12月 1, 1982

 少し開いた浴室のドアのすき間から、シャワーの水の音が聞こえていた。僕はちょっと罪悪感を覚えながらも、好奇心に勝てず、そのドアのすき間から中をのぞいてみた。ぼうっと湯気の立ちこめた浴室の中で、ふりそそぐ湯にさらされている褐色の体。堅そうな筋肉がもりもりと動く肩。なだらかに尻に向けて引き締まっている背中と、水着の跡が白く残った逞しい尻。不思議に魅力的なその後ろ姿に僕がじっと見入っていると、彼の手がシャワーのコックに伸びてそれをひねり、同時にあたりにしぶきをあげていた湯が止まった。
「ふうっ……。」
彼は頭を振るようにして大きく息をすると、僕のほうに背を向けたまま、バスタオルを取って体を拭き始めた。彼の体の上を弾んでころがり落ちる水滴が、どんどんそのバスタオルに吸い取られていった。
 適当に体を拭いてしまうと、彼は紺色のボクサーショーツをはき、首にバスタオルをかけて僕のほうに振り返った。頭をごしごしやりながら振り返った彼の姿は、力のありそうな上腕とまだいくぶん水滴を含んでいる腋毛が何となく刺激的な感じだった。へそのあたりまで生え上がってきている体毛と、柔らかそうなボクサーショーツの布越しに感じられる盛り上がった部分の迫力は僕を圧倒していた。彼は僕に気づいてちょっとけげんそうな目つきをしたが、別に何を言うでもなく、すぐ一人で納得したような表情になって僕の横をすり抜けると、台所へはいって行った。取り残されたかたちの僕も、その後ろ姿に誘われるように彼について台所へはいって行った。
 彼は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出すと、そこらへんにあったちょっと大きめのグラスを取ってそれに注いだ。グラスに八分目ぐらいその果汁を注ぐと、どうやらそれを一息に飲みほしてしまうつもりらしかった。彼の喉仏がそのたびに上下に動くのをながめながら、僕は彼が裸であることを意識し始めていた。
「……。」
彼はオレンジジュースを飲みほしてしまうと、もう一度グラスに八分目ぐらい果汁を注いで、黙って僕のほうに差し出してくれた。彼がちらっと見せたその優しそうな表情に、断るのが何となく悪いような気がしたが、そんなに喉がかわいているわけでもなかったので僕は首を横に振った。
 すると、彼はちょっと残念がっているようにも見える表情をしたが、たいして気を悪くしたふうでもなく、そのまま自分で一口すするとグラスを片手に持ったまま寝室へ歩いていった。
「ずっといるのか?」
セミダブルベッドのサイドテーブルにオレンジジュースの入ったグラスを置くと、彼は初めて口を開いた。僕はちょっと戸惑ってから言った。
「うん……。」
彼の低音の声に引きずられて、僕の声まで低くなっているようだった。
「……そうか。」
首にかけたバスタオルを部屋の隅のロッキングチェアに放り出して彼がベッドに腰をかけると、かすかにスプリングのきしむ音がした。ベッドに広げられたシーツの白さと、彼の陽に灼けた体の色とが対照的だった。
 入り口のところに立ったままでいるのも居心地が悪い気がして、僕は寝室のドアを後ろ手にそっとなるべく音がしないように閉めると、彼の体の水分を拭き取ったバスタオルのかかっているロッキングチェアの端にゆっくりと腰を降ろした。窓を閉めきっているのに部屋の中がそうたいして暑くないのは、エアコンのファンがかすかに空しい音をたてて回っているせいらしかった。けれども、体に着ている僕の汗といくらかは町のほこりも吸っているであろうポロシャツが、僕をやや不快な気分にしていた。たぶん僕の肌はじっとりと汗ばんだ感じがするに違いないと思いながらも、ポロシャツを脱ぐことがはばかられて、僕はじっと彼の様子に注目していた。
 当の彼は僕が見つめているのを意識しているのかしていないのか、相変わらず落ち着き払ったままグラスを取り上げて、またオレンジジュースをちょっと飲んだ。そして、それから意を決したように僕のほうに目を向けると、
「シャワーでも浴びてこいよ。」
とぶっきらぼうに言った。僕は内心ちょっとほっとして、
「うん。」
とうなずいた。僕は彼が付け加えて何か言うことを期待していたのだが、彼はそれ以上何も言わず、ベッドに横になるとなにやらぶ厚い本を読み始めた。しばらくの間僕はそのままにしていたが、ついにあきらめて、彼の使ったちょっと湿ったままのバスタオルを持つと浴室へ行った。
 汗とほこりのしみこんだ肌を少々熱めの湯が気持ちよく流していった。ほのかにいい匂いのする石けんを体の上に泡立てていると、さっきまでの不快感がうそのように思えた。そうして、体中泡だらけになってしまうと、もう一度シャワーのコックをひねって湯を頭から浴びた。洗い流された石けんの泡が白い渦になって排水口に吸い込まれていくのを見ていると、石けんと一緒に流れてしまった汚れの分だけ体が軽くなったような気がした。
 僕は少し機嫌をよくして体を拭いたバスタオルを腰に巻くと、自分の汗を吸ったポロシャツやら下着やらをかかえて寝室のドアを開けた。僕がはいって来たのを見ると、彼は読みかけの本をサイドテーブルの上に置いてのっそりと起き上がってきた。そして、僕のかかえている服を取り上げるようにして部屋の隅へ放り投げると、僕に鮮やかな赤い色のボクサーショーツを手渡してくれた。
 僕はそのボクサーショーツの色の鮮やかさにちょっとためらっていたが、彼は僕のためらいに全く気づかないふうで、ベッドに横になり本の続きを読み始めていた。それで仕方なく腰に巻いたバスタオルを彼がやったようにロッキングチェアにひっかけると、僕はそのボクサーショーツをはいた。その鮮やかな赤が以外とすんなり体になじんだのでちょっとホッとした。けれども、今度は、いまさらまたロッキングチェアに腰かけるわけにもいかず、当惑顔で立っていることになってしまった。僕が体の置き場に困っていると、それに気づいたのか、彼は本から目を上げ体にかけていた毛布を持ち上げて、僕がそのすき間にはいり込めるようにしてくれた。彼の表情の好意的なことに安心して、僕はためらうことなくそこにすべり込んだ。
 彼は読みかけの本にしおりをはさんでパタンと閉じると、初めてまじまじと僕を見つめた。そうするとおかしなもので、今度は僕が彼の視線に気づかないふりをしてそっぽを向いていたのだ。彼はサイドテーブルの上に本を置いて、そのかわりにオレンジジュースの入ったグラスを取り上げて、
「飲むか?」
と今度は声を出して僕に尋ねた。僕が素直にうなずくと、彼はオレンジジュースを少し口に含んで僕の上におおいかぶさってきた。少し酸味のある液体が、どっと口の中に流れ込んできて僕はむせないように用心してそれを飲み込んだ。僕の舌には、冷たいオレンジジュースの味と彼の暖かい舌の感触が残った。僕はただオレンジジュースを飲むことだけを意識して彼の舌を吸った。そのくせ僕は、彼の唇があっけなく離れていってしまったことが少し不満だった。
 僕がよっぽど不満そうな顔をしていたのか、僕はいきなり彼に両手首を押さえつけられてしまった。突然だったので純粋な恐怖を感じて束縛から逃げようと思わず体をよじったが、そのときにはもう彼の舌が僕の唇を割って口の中へ侵入していた。
「うっ……。」
本能的に顔をそむけようとしたが、彼にがっちりと押さえ込まれていることが、僕には著しく不利な条件だった。けれども、いきなりで驚いただけだったから、やがて僕が抵抗しなくなると、彼は僕の口の中をなま暖かい舌で探るのを中断して体を起こすとニヤッと笑った。僕は、彼のその笑いの意味を自分勝手に解釈して、なんということもなく赤面してしまった。
 僕をのぞき込んでいた彼は、急に醒めたような、真面目な顔になって、サイドテーブルに置いてあった本を取り上げると、しおりをはさんであったページを開いた。本に目を落としてから彼はあらためて僕に気づいたように僕の顔をまじまじと見て、
「少し寝ろ。」
と独り言のように言った。そういわれてみれば少し頭痛がして、たしかに眠くもあった。それで僕は枕に顔をうずめるようにして、肩まで毛布をかぶった。すると彼は座ったまま僕の頭に手を伸ばして撫でるような仕草をしてくれた。僕が上目づかいに彼のほうを見ると、彼は活字に視線を落としたままだった。次第に彼の手の動きがゆっくりになっていって、また時々思い出したように僕の髪を撫でてくれるのをおぼろげに感じながら、それでも僕はしばらく眠ったようだった。