彼は再び読みかけていたページにしおりをはさむと、本をパタンと閉じてサイドテーブルの上に置いた。それから、彼の大きな手が僕の手首をぐっとつかんで、僕の手は彼の腕に押しつけられた。すべすべした皮膚の向こうに強じんな筋肉の束があった。僕がきょとんとしていると、僕の手は彼の手に誘導されて彼の体のあちこちに触れていった。厚い胸も、ポツンと盛り上がった乳首も、脇腹も、そして、しわを集めて異様に大きくなっているボクサーショーツのふくらみも……。熱く、堅い感触は布越しでも僕の手にはっきりと伝わってきた。しかも、それはますます逞しさを増しつつあった。
「本物、だろ……?」
彼はその堅さを確かめさせるように、僕の手をぐっとそこに押しつけた。
「……。」
けれども僕は、無言でそれを握りしめるだけだった。
彼は僕の手をそれに触れさせたまま体をずらせて、毛布の中にはいってきた。毛布から出ていた彼の上半身は少しひんやり感じられて、エアコンがききすぎているのかもしれないと僕は思った。
「寒くない?」
僕は尋ねようとしたが、そう言うよりも前に彼の腕の中に抱きかかえられてしまって、その機会を失った。僕の顔はちょうど彼の胸に押しつけられる格好になっていたから、何かをしゃべっても彼に聞こえそうになかった。彼に抱きかかえられてみると、彼の体は思っていたよりも暖かかった。ひんやりしていたのは、どうやら彼の体の表面だけだったようだ。
「寒くないか?」
胸の奥から彼の声が響いてきた。それが単なる修辞的な疑問だとはわかっていたけど、彼が僕と同じことを考えていたことが僕はなんだかおかしくて、少し笑ってしまった。笑いながら、その笑いの意味を彼になんと説明したらいいんだろうと考えていたが、彼は僕が笑ったことについては何も言わなかった。
そうやってしばらく僕の体を抱いていてから、彼は僕の体を解放した。そして、ゆっくりとベッドから起き上がって、エアコンのスイッチを切り、カーテンと窓をいっぺんに開けた。すると、夏の光、夏の風、そして夏の喧噪がいっぺんに部屋の中に流れ込んできた。
「来いよ……。」
彼は黙ったまま、夏の空を背景にベランダに立ってじっと僕を見ていた。それで僕も毛布をはねのけてベランダに出た。夏の太陽はじりじりとあたりを焼きつけていた。まぶしさに僕がまだ慣れないでいるうちに、彼は部屋の中から例のロッキングチェアを引きずり出してきた。
「誰かに見られるよ。」
僕は抗議したが、彼は何も言わず僕をそのロッキングチェアに押し込んだ。
太陽に焼かれて早くもじっとりと汗ばんできた僕の体は、やはり少し汗ばんでいる彼の体の下だった。僕がさっきまではいていた赤い色のボクサーショーツは、彼がほんの今まではいていた紺色のといっしょに僕の足元でくしゃくしゃになっていた。彼の手によって自由にされてしまった僕の下腹部には、自分の堅さと彼の堅さの二つがあった。
「……ふう。」
彼はじらすようにゆっくりしたテンポで僕の舌を自分の舌でくすぐりながら、そのくせ手のほうは素早く僕の体の上をくすぐってまわっていた。たとえば彼の指がコリコリと乳首をつまんでころがすと、本当はちょっと痛いはずなのに、痛い感覚と快感とがどこかで混線してしまっているような感じだった。そうして彼は正確に計算しながら僕の快感を一つ一つ高めていった。
まぶしい光が僕の目を射ていた。なんとかしてそれを避けようと、僕は目をつむって顔をしかめたけれども、そのまぶしい光の中に彼の姿が溶けてしまうような感じだった。
「おい、起きろよ。」
体をゆすられて、僕はだんだん覚めてくるのがわかった。もう少し眠っていたかったのに……。
「うるさいなあ……。」
「何時だと思ってるんだよ。もう十時近いんだぞ。」
僕の目の前に、もう一人の彼がしかめっ面をして僕をのぞき込んでいた。
「まぶしいから、カーテンを閉めてくれよ。」
僕は窓に背を向けてそのまぶしい光から逃れようとした。
「こら、また寝るつもりなんだろう。」
彼の乱暴な手が僕の体を激しくゆすった。
「わかった、わかった。起きるよ。」
僕は抗議のために、せいいっぱい不機嫌な顔をしてベッドの上に起き上がった。
彼はもう服を着ていて、僕の不機嫌な顔には何の関心も示さず、
「おはよう。」
とあいさつをした。
「せっかく夢を見てたのに……。」
「何の?」
彼はあまり興味なさそうに、それでも一応はそう尋ねてくれた。
「君の夢。」
自分の夢と聞いて、彼はちょっと気を引かれたようだった。
「俺の?」
彼はまたベッドの傍らにやってくると、疑わしそうな目付きで僕を見た。
「夢の中では僕を無理矢理起こしたりしなかったぞ。」
ところが彼は、
「現実は厳しいことになってるんだ。」
と、あっさり言ってのけると、
「それよりも、出かける約束だろう。」
さっさとまた向こうへ行って何かごそごそやりはじめた。
今日も暑くなりそうだなあと思いながら、僕はしぶしぶ服を着た。冬の、寒々とした天気の日なんかには早く夏が来ればいいのにと思うが、いざじりじりと太陽の照りつける暑い夏の日になってみると、少々うんざりするというのが本音だ。
「どこへ行くつもりなんだ?」
彼にはいろいろひきずりまわされているから、僕は警戒しながら言った。
「たまには映画でも見に行こうか?」
炎天下を歩かずにすむだけいいのだろうが、そうなると今度は、せっかくこんなに晴れてるのに、という気になる。
「でも、せっかく晴れてるしなあ。」
思ったとおり、彼はいろいろと思い迷っているようだ。
「どうしようか……。」
彼は僕に尋ねるともなく言った。
「どうするんだよ。」
僕はいらいらして思わずそんなことを口走ってしまった。僕がさっさと希望を述べれば、悪く言えば主体性に欠ける彼があれこれ言ってみなくても済むんだから、責任の一端は僕にもあると思う。けれども、僕が何か言うとすぐに自分の考えを変えてしまう彼の優柔不断さが何となくしゃくにさわるのだ。しかも、その優柔不断さにしたって、彼がわざわざ僕の希望に合わせてくれようとしてのものだということぐらい、うすうす気がついてはいるというのに……。
彼の表情が少し硬くなった。
「出かけたくないのか……?」
脅迫じみた声の調子でそういわれると、僕はついつい反発してしまう。
「君しだいだよ、それは……。」
僕の声も、眠っているところを起こされたさっきからの不機嫌さに輪をかけたものになっていた。
「そんな言い方ないだろう。」
せっかくこんなにからっと晴れていて、しかもまだ午前中だというのに、もうじっとりと汗ばむ暑さになってしまった。
「とにかく、出かけるのか出かけないのか、はっきりしろよ。」
僕はそう言ってしまってから、今日中に彼の機嫌を直せるかどうか不安になった。
「わるかったね、眠っているところを起こしたりして。」
完全に彼はそっぽを向いてしまった。なぜこんなに食い違わなけりゃいけないんだろう、と思いながらも、僕も彼から視線をそらせるしかなかった。
気まずい雰囲気の漂う手持ち無沙汰な午前中だった。気温はどんど上がっていって、それがいっそう僕を不快にした。大きく開けた窓から時々思い出したように涼しい風が吹き込んで、ちりんと風鈴が涼しさを告げてくれたが、それが僕らの機嫌を直してくれるわけではなかった。
「おい。」
彼の体かびくっと動いたが、彼は本か何かを読んだまま返事はなかった。
「昼飯はどうするつもりだ?」
こんな今年か話題のないことが無性に腹が立ったが、
「俺、いらない。」
という彼の言葉の素っ気なさに比べれば、まだましかもしれなかった。しかたなく僕は台所へ行って冷蔵庫の中のものを探った。オレンジジュースがあったから、それをコップについで飲み干して、僕はあり合わせのもので、どうやら昼飯と呼べるものをでっち上げた。けれども、結局それは僕が一人で食べることになってしまって、僕は思わずため息をついたが、僕のため息ぐらいでは風鈴はちりんとも音をたてなかった。
夢精
水曜日, 12月 1, 1982