人混みの中を、彼と二人で駅の方に向かって歩いていると、急に彼が立ち止まった。
「知……!」
できれば、立ち止まる前に、一言、声をかけて欲しい。
「急に立ち止まったりして、どうかした?」
どうせろくなことじゃないんだろう。
「お茶でも飲んでいこうか。」
お茶に誘うんなら、そんなに急に立ち止まらなくったっていいんじゃないかと思う。それに、こんな人混みの中で立ち話なんかしてると、
「お茶はいいけど、僕たち、著しく通行の邪魔になってると思うんだよね、」
通っていく人達にぶつかられてしまう。
最近はもうあきらめてしまって、文句を言う気分も起こらないけど、それでも、不味い色付き水に金を払う気はしないから、
「僕、ココアがいい。」
紅茶だけは注文しない。
「あれ、紅茶じゃないのか?」
彼は、皮肉だかなんだか、僕に意味ありげな目つきをしてみせてから、自分はコーヒーを注文した。
「ココアのほうが、まだ、飲めるのがでてくる確率が高いから……。」
それだって怪しいもんだ、と思いながらも、彼の腕の中で甘えた後では、色付き水のことなんかで彼と議論する気にはなれなかった。
だから、のどの奥にこびりつくような甘さのココアでも、落ち着いた気分で飲むことができたのだろう。
「お茶に誘ってくれるなんて、珍しいね。」
香ばしい匂いを一口すすった彼が顔を上げるのを待って僕がそう言ったのは、単純に嬉しかったからなのに違いない。
「……。」
でも、彼はちょっと笑っただけで、あんまり僕の言葉の意味までは理解しようとはしてくれないふうだった。
「知……。」
僕がこんなに、ポケッ、としているのに、
「……?!」
それが、彼にとっては、逆説的な意味での警戒心のように思えるのだとしたら、
「俺が結婚してると、やっぱりまずいか?」
こういうことになるのかもしれない。
未練たっぷりな態度、っていうのは、うらやましくはあるけど、僕自身はそういうふうにはなれない、なんて思ってるから、いつも駅まで二人で歩いてる時に、彼と肩がぶつかったりすると、不思議とそれだけで、その次に約束した日までを心穏やかに過ごせたりする。さすがに、僕には、そのことの彼にとっての意味を思いやったりできるほどの余裕はないけど……。だからこんなふうにお茶に誘ってもらったりすると、
「ううん、別に……。」
僕にそれ以外の答え方があるだろうか。でも、彼が、僕の弁解をもっと聞きたそうな顔つきでいるのは、僕のことをガキ扱いしているのだ。それはわかってるけど、こんなココアの一杯ぐらいで、これ以上の弁解なんかしてやらない。
僕がよっぽど強情そうな顔をしてたのか、それとも、彼自身も、ココアの一杯ぐらいじゃ言い訳にならないと思ってくれたのか、
「たまには……、お食事など、一緒にいかがですか?」
夕食なんかに誘われてしまった。
「……?!」
腕枕だけじゃなくて、夕食まで誘ってくれるなんて、
「どうした、変な顔をして……。」
何かあるんじゃないか、と、思わず身構えてしまう。
「食事っていうのは、やっぱりまずかったかなあ。」
嬉しいことは、嬉しいけど……。
「食事なんて、本当にいいの?」
何となく、単純には喜べない。
「いいよ、もちろん……。」
どうして、急に食事なんか誘う気になったんだろう。いつも、家庭方面行きの駅の改札口を、後ろを振り返ることなく、足早に通り抜けていくのに……。
ひょっとしたら、とんでもないことをたくらんでいるのかなあ、と疑心暗鬼でもって、それでも、どこかへ電話をかける彼には気がつかないふりをする。
「待たせたな……。」
夕食をすっぽかす口実を、どんな物語にしたのか、少なからず興味はあるけれど、
「嬉しいな、一緒に晩飯が食えるなんて。」
僕も、そこまで悪趣味には走れない。
「仕方がない。それじゃあ、たまにはおごってやるか。」
僕の無邪気な演技を本当に誤解したのか、それとも、僕の警戒心をかわすためか、彼はそう言って苦笑した。所帯持ち、っていうのは嘘が上手いから、話をしてると絶望的に疲れてしまう。腕枕をしてもらってるだけのほうが、よっぽどわがままでいられる気がする。
いや、たぶんそうじゃない。そうじゃなくて、彼と話をしていると、まるで自分の理解力を試されているように感じるのだ。
「何が、食べたい……?」
さり気なく隠された毒舌や、当たり前のように用意された詭弁に、細心の注意を払っていないと、すぐ痛い目にあってしまう。
「誘っておいて、僕に決めさせるのはちょっとひどいよ。」
まずは合格点の解答だったつもりだけど、どうだろう。
「……じゃあ、ドイツ料理でも食いに行くことにするか。」
これは、きっと、僕が黒ビールなんぞに目がないことを狙ってのワナに違いない。けど、おいしいソーセージが食いたいから、彼の思うつぼにはまってしまおう。
彼…… 2
金曜日, 5月 31, 1985