彼…… 3

金曜日, 5月 31, 1985

 ゆであがったばっかりの暖かいソーセージにマスタードをつけて、酢漬けのキャベツなんかと一緒に、黒ビールで流し込むと、それだけで幸せな気分になってしまう。要するに、僕は、自分で思っているよりももっと単純な人間なんだろう。
「このあいださ、電車の中で……。」
だから、にこにこ顔の彼に、ついつい、僕の弱点になりかねないことを話してしまったりするのだ。
「うん?!」
彼も、伊達に年をくってるわけじゃなくて、そういうところ非常にずるいから、真面目に聞くふりをして、純情な僕をその気にさせる。
 時々、自分があと五年ほどたったら、どんな顔になっているだろうな、と思うことがある。子供の頃は、というか中学生の頃でさえ、自分が大人になった顔なんか、想像もつかなかった。それが、いつのまにやら、その想像もつかなかった年齢になって、気がついてみると、中学生の頃とあんまりかわっていなかったりする。変わることができていないのは自分のせいなのに、なんだかだまされたような、ちょっと寂しい思いになってしまう。
「僕って、そんなに進歩のない顔をしてるのかなあ。」
鏡の前で、真剣に悩み込んでしまったりするのだ。
 だから、というわけでもないのかもしれないけど、街角なんぞで、内にあるものがあふれているような、柔らかい表情をした男の人を見かけると、僕もあんなふうに歳をとりたい、と憧れて、つい、じっと見つめてしまう。
「三十才ぐらいの人だったんだけど、すごくいいな、って思う人がいたんだ。」
彼は片方の眉毛だけをちょっと持ち上げてみせる。
「なんて言うのかな、すごく口当たりのいい笑顔で、バリトンの響く声でさ、がっしりした体格で……。」
彼の目が、僕を冷やかしているのに気づいて、僕は思わず赤面してしまう。
「バリトンじゃなくて残念だったなあ……。」
彼は、ため息をつくように言って、とぼけている。
 そんなわけで、電車が混んできたのを幸いに、その人の尻を触ったりなんかしたことは言いそびれてしまう。そのかわりに、その弾力性のある尻の感触を思い出して、ニヤニヤしてしまった。
「何を思い出し笑いしてるんだよ。」
彼は、ちょっとしかめっ面をするけど、残念なことに、僕の思い出の中へ干渉を試みるようなことは、全然、思いつきもしないらしい。
「僕も、あんなふうに歳をとりたいな、なんて……、やっぱり駄目だろうな。」
少なくとも、僕も、彼と同じく、その人のバリトンの豊かな声にはかなり届かない。
 でも、こんなことを話したのは、二重の意味でまずかったみたいだ。
「……。」
彼は、何も言わずにニコニコしてるけど、明らかに、さっきの腕枕の中での僕の不用意な言葉への言い訳と同時に、口当たりのいい笑顔をした三十才に対する言い訳も聞きたそうな目をしている。
「その……。」
今度は、僕のほうが、時間稼ぎのキスを迫りたい気分だった。
「知……。」
仕方ないから、『自家製ソーセージ』っていうのと黒ビールに夢中のふりをして誤魔化しそうとしたら、彼は、そんな僕が面白くて仕方ないらしく、相変わらず僕を見つめているのだ。
 時間切れを狙って、腕時計をちらちら見るふりをする、なんていう手もないわけじゃないけど、
「たまには、泊まっていくのもいいな。」
なんて、独り言のように言う彼の誠実さは、そういう卑怯なやり方をためらわせるに充分だったりする。どんなにがんばってみても、あと数時間しか一緒にいられないことがわかっていて、ゆったり微笑っていられる彼は、やっぱり大人だと思う。
「ごちそうさま……。」
食べてさえいれば幸せ、という僕の性格にもかなり問題があると思う。でも、幸せそうな顔をすると彼が嬉しそうだから、なんて、あまりにも言い訳じみてるかなあ。
「……?」
彼に合わせて、ちら、と腕時計で時間を計ってから、
「たまには、僕がおごるから、お茶の一杯ぐらい、つき合って欲しいんだけど……。」
僕にだって、彼を心安らかに電車に乗せる義務があると思う。