彼…… 6

金曜日, 5月 31, 1985

 そんなことだから、つい、悪趣味を実行してしまったりする。彼の生活にまで干渉するような思い切ったことではないにしても、彼との約束の時間だというのに、僕は、冷めた紅茶を前に、喫茶店で文庫本とにらめっこだったりする。
「そろそろ、行こうかな……。」
内心、大いに焦っているくせに、しぶしぶ、といったふうに腰を上げる自分が、我ながらおかしくてたまらなかった。
「待って、るかなあ……。」
待ち合わせには、遅れた時でも5分くらいの彼のことだから、もう待ち合わせ場所の人混みの中で人待ち顔に違いない。
「いいんだ、たまには待たせたって……。」
そう言いながらも、つい、早足になってしまう。
 結局のところ、待ち合わせ場所の人混みの中に彼の穏やかな表情を見つけたのは、約束の時間を30分も過ぎていた。
「やあ……。」
彼の顔に、ゆっくりと微笑がもどってきた。
「ごめん、遅くなっちゃった……。」
ひょっとして僕の表情はこわばって、おどおどした目つきになっているだろうか?
「珍しいじゃないか、知がこんなに遅れてくるなんて。」
少なくとも、表面的には、彼は普段と変わりない。
「うん、ちょっと……。」
でも、そのさりげなさが、気になったりする。
 とりあえず、やっぱり、すぐそういう場所に駆け込むのも気が引けるので、お茶などを飲むことにした。
「待った……?」
待った、よな、やっぱり……。
「うん。」
コーヒーを一口すすって、彼は素っ気なくうなずいた。もうちょっと思いやりのある言葉をかけてくれたっていいのに、と、僕は、自分のことを棚に上げてそんなことを思ってしまう。
「道にでも迷ったのかと思ったよ。」
ふん、いくら、僕が方向音痴でも、待ち合わせ場所にたどり着くのに道に迷ったりしないよ。
「道には迷わなかったけど……。」
気障な言い方をするなら、愛に迷ってしまった、っていうことかな、なんて、これはちょっと恥知らずに過ぎる台詞のような気がする。彼は、もう一度ゆっくりとコーヒーをすすってから、
「知が来なかったら、どうしようか、と思ってた。」
真面目な顔になった。
「ふうん……。」
その間、僕は、もんもんと紅茶が冷めるにまかせていたわけなんだ。ふう……。
「もし、来なかったら……?」
彼は、ちょっと考えてから、
「仕方ないよな、帰るしかないな。」
「それっきり……?」
まるで、聞きわけのない子供みたいに、僕の疑問は言葉になる。
「そりゃ、俺にもわからないさ。」
それじゃあ、僕は、いったい何が不満なのだろう。
「僕のことは、待っていてくれるなんて、思わなかった。」
少なくとも、今日は、これからの何時間かを彼の腕枕の中で、彼との時間を過ごすことにしよう。
「もう、行こうよ。」
僕がそう言うと、彼は、にや、といやらしい中年の笑いを浮かべて、
「この淫乱め……。」
と嘲笑った。