どうせ、こんなこと言ったって、笑って取り合ってはくれないんだろうけど、僕は、いつだって、兄貴のことを待っているんだ。例えば、手持ちぶさたな冬の夜、ちょっとため息なんかついているときには、兄貴からの電話が待ち遠しい。兄貴からの電話はすぐわかる。もっとも、僕の部屋には、兄貴の他は、滅多に電話を寄こさないから、それも当然かもしれない。
「元気か?」
時々、こんなふうな質問に、なんて答えるべきか迷ってしまうことがある。
「ううん……。」
さっきのため息の続きで、僕の声も、憂うつそうに聞こえるかもしれない。
「僕、寂しかったんだ。兄貴が、全然、電話してくれないから。」
もっともらしい理由を考えて、そう言い訳する。
電話がなかったら、僕は、どうするだろう。皮肉なことに、電話がないほうが、僕にとっては平和なのかもしれない。
「寂しかったら、電話してくればいいじゃないか。」
兄貴は、もっともらしい理由を考えて、そう言い訳する。
「そうだね……。でも。」
最後だけ、兄貴には聞こえないように、口の中でつぶやく。
だって、僕には、兄貴のいない兄貴の部屋なんか想像できない。兄貴だって、自分のいないときの部屋がどんな表情のなのか、思いもつかないだろう。
「最近、忙しそうだね。」
呼出音を、何回鳴らせば、受話器を置いていいのだろう。
「そ、そんなこともないよ。」
空虚しい呼出音は、僕のもっている受話器の先に、兄貴のいない部屋がぶら下がっていることを教えてくれる。
「じゃあ、たまには電話ぐらい……。」
呼出音がとぎれるまでの間が耐えられないから、僕は電話をかけないのに……。六回、兄貴の部屋の電話を鳴らして、仕方なく受話器を置くときに、僕の思いはどこへ行ってしまうんだろう。
「なんだ、週三回の電話じゃ不足か?」
きっと兄貴は、僕の電話を待っていてくれるわけではないのだ。そうでなければ、兄貴の苦笑いする顔が、思い浮かんだりしないはずだ。
兄貴の電話が切れた瞬間から、僕のため息は始まる。兄貴の電話はうれしいけど、
「じゃあ、もうそろそろ寝ようか。」
受話器を置く時のことを考えると、電話にでるのが憂うつになる。
「うん……。」
兄貴の声は、こんなに近くになるのに、
「じゃあ、おやすみ。」
受話器を置いたとたんに、改めて、兄貴の遠さを思い知らされる。それでも、僕が兄貴に電話をかけ直すことをしないのは、兄貴の電話が兄貴の部屋からじゃなかったときがこわいからだ。
「……。」
兄貴の部屋の番号をダイヤルしても、空虚しく呼出音が続くだけだったら、僕の思いまで空虚しくなってしまう。
「兄貴は、どうして、わざわざ自分の部屋以外から、僕に電話してきたのだろう。」
そんな疑問に、誰が満足な答えを教えてくれるだろう。
そのくせ、僕が、もう、あきらめてしまった頃に、
「今度デートしようか。」
だから、僕は、すぐには返事の言葉を思いつかない。
「デート、って……?」
兄貴は、くすくす笑って、
「俺とじゃ、駄目か?」
わかりきってるくせに、そういうことを言う。でも、もっと悔しいのは、
「僕、最近、忙しくって……。」
僕がそう強がってみせても、兄貴が、全然、残念そうな口振りじゃなくて、
「そうか、それは残念だなあ。」
と平気で言ってのけることだ。
「でも、せっかくの兄貴からの話だから、時間を空けるよ。」
あんまり長いこと会わないと、兄貴の笑顔さえ思い出せなくなってしまう。
「じゃあ、明日の六時に、いつもの喫茶店でいいだろ?」
ひょっとしたら、僕は、もうすっかり兄貴の顔を忘れてしまって、明日、他の人と見分けがつかないかもしれない。
どうして、そんなに急いで、電話を切ろうとするんだろう。
「じゃあな……。」
もう、何も話すことはないけれど、でも、何か話して欲しい。
「……おやすみ。」
僕は、兄貴がカチャンと受話器を置く音を聞いてから、ゆっくりと受話器を置く。
「……おやすみ。」
僕の耳の中には、兄貴の声が残っているけれど、兄貴は、今頃はもう、僕の声なんか忘れてしまって、小説の続きにでも没頭しているんだろう。僕は、明日の六時を時計とにらめっこをしながら待つけれど、兄貴にとって、明日の六時は、一つの瞬間でしかない。明日の六時までの時間が、兄貴の生活で埋められていく。僕にとっては、もう、すでに明日の六時は始まっているけれど、兄貴は、明日の六時を約束の時間として、ただ覚えているだけなのだ。
待ちぶせ 1
木曜日, 3月 1, 1984