待ちぶせ 2

木曜日, 3月 1, 1984

 喫茶店で、すっかり冷めてしまったココアをすすりながら、兄貴を待つ。ぼんやりと、喫茶店の入り口を見るというわけでもなく、兄貴の姿が現れるのを待っている。約束の時間の二十分も前に兄貴が現れるはずがないことはわかっているけど、それでも、兄貴の姿を期待して、入り口の扉が開くたびに、ため息をつく。時計を見ないようにしよう、と思うのに、ちら、と盗み見る腕時計の針は、まだ五分ほどしか進んでいない。
「じゃあな……。」
兄貴の声を思い出して、突然、不安に駆られてしまう。ひょっとしたら、兄貴は、約束を忘れてしまったんじゃないだろうか。それとも、仕事で来られなくなっちゃったのかもしれない。何気なさを装いながら、あきらめにも似た気持ちで、遠くのビルから聞こえてくる午後六時の時報を聞く。
「十五分しか待たないからな。」
自分にそう言い聞かせないと、申し訳ないような気がする。
 でも、残念なことに、兄貴は時間に几帳面だから、時報から三十秒もたたないうちに、僕は兄貴の姿を入り口のところに見つけた。
「……。」
ほうっ、と大きくため息をついて、途端に僕はよそよそしくなる。
「待ったか……?」
兄貴は、めざとく、僕の空になったカップの意味を悟ってしまう。
「悪かったな。待たせちゃいけないと思ってさ、がんばって歩いてきたんだけど、俺って短足だろ?」
そんなことを言われると、兄貴の顔が見られなくなってしまう。
「コーヒーの一杯ぐらい飲ませてくれよな。俺、のどが渇いちゃって……。」
小さなテーブルの上に置かれた、兄貴の読みかけの文庫本が居心地悪そうだ。こんな文庫本でさえ。兄貴の時間を独占してしまうことができるとは、なんていまいましいことだろう。
 事務的に注文を取りに来たウェイターが、兄貴の、
「コーヒー。」
という言葉さえ聞き終わらないうちに、テーブルから伝票をひったくって行ってしまう。そのぶっきらぼうさが、僕にとっては、唯一の救いだ。
「だいぶ、待った?」
僕は、昨日の夜の電話から、ずっと兄貴に会えるのを待ち続けていたのに、
「うん……。」
感情と言葉は、互いに相容れない概念なんだということを思い知らされる。
「そうか……。」
感情の動物にとって、言葉なんていうのは、自分の感情を相手の鏡に映してみるための一つの安易な手段、もしくは、触媒に過ぎないんだと信じたい。でも、残念なことに、それは、同時に、感情移入を要求する方法の言葉への依存を証明することでしかない。だから、兄貴が微笑しながら黙ってうなずいてくれたとしたって、兄貴は、僕のカップが空になっていること以上には、時間を遡ってみてはくれないだろう。
 けれども、僕は、何を待つのだろう。電話のベルに耳を澄まし、時計の針の進む遅さに焦り、そして皮肉なことには、兄貴の姿を視野に捉えた瞬間から、
「じゃあ、またな。」
という兄貴の別れの言葉さえ、僕には想像できる。
「どうした、元気ないな?」
兄貴のカップの中の褐色の液体から昇る暖かな湯気と、僕の前の冷め切った陶器のカップとが対照的だ。
「兄貴、今晩、どうする?」
あまりに露骨すぎたかな、と後悔するが、
「そうだなあ……。」
同時に、待っているのは僕だけなんだ、と空虚しくもある。
「今日は、地中海料理っていうやつが喰いたいんだ。」
つまり、僕の想いは、見事に肩すかしを喰わされたのだ。
 そりゃ、僕だって、ふんだんにトマトピューレとかをぶち込んである料理に魅力がないわけじゃない。
「僕は、何でもいいよ。」
確かに、食欲も大切な問題ではあるけれども、当面の最重要課題はもっと別なことだと思う。
「このあいだ、わりとうまそうで、あんまり流行ってなさそうな店を見つけたんだ。」
兄貴の無邪気さが、僕には耐えられないときがある。例えば、無視とか、黙殺とかが、相手に対する厳しい否定であるように、それはまるで、僕の想いへの疑問符ではないだろうか?
「やっぱり、流行ってない、っていうのは、問題があると思うけどなあ、いくらうまそうに見えたって……。」
僕がもうちょっと馬鹿で、兄貴に対する自分の想い以外は、なんにも目に入らないか、それとも、こんな駆け引きを、ゲームと割り切ってしまえるなら、よかったのに……。あくまで、ドライに。ちょうど、兄貴のように。
 恋はゲームじゃない、なんて、少なくとも僕に関する限り、あんまり現実感がありすぎて、思わず笑っちゃうのだ。こういう場合、わきまえない僕は、素直に笑ってしまうことになる。
「流行ってないからいいんじゃないか。流行ってる店ってのは、本当はまずいんだぜ。」
兄貴の笑いと、僕の笑いは、こんなわけで、全然、共通点を持ち得ないことになる。
「そろそろ行くか……?」
ため息をつけば何とかなるわけじゃないけど、そのくらいの意思表示が僕にとっては、精一杯なのだ。伝票をつかんで立ち上がる兄貴に、テーブルの上の文庫本へ目配せをしてやる。
「おっと、忘れるところだった。」
今日、出かけるときに、兄貴がこの台詞をつぶやかなかったことを祈りながら、僕は、
「ありがとうございました。」
疲れたような声に送られて外に出た。