待ち合わせ 4

水曜日, 1月 30, 1991

 きっと、彼は、ちょっと酔っぱらっていたに違いない。
「おまえは、結局、自分以外を好きになったりしないもんな。」
それにしたって、そういう言い方は、ないだろ?
「そんなことないよ。」
彼は、俺をいたぶって酒の肴にして面白がっている。
「だって、おまえは、恋愛なんかしたことないだろ?」
きっと、これは、『あの頃』の俺の口癖で、『俺は、誰かに恋をしたことなんかないんだ』とかなんとか、彼に変な話をきかせてみせたに違いない。
「まあ、恋愛なんか、どっちかっていうと、思い込みだから……。」
俺は、赤面してしまうような思いで、『あの頃』の俺のことを想像していた。あんなふうに、思い出のなかった頃は、いったいどうやって暮らしていたんだろう。いとおしいような懐かしさにひたっていると、遠いところでひらめく炎を見つけるように、なくしてしまってものを取り戻せるような気がする。

 昔を見つめている俺を嘲笑うように、彼は俺の純情な(んじゃないかな、たぶん……)心を刺すようなことを言う。
「おまえに本音をしゃべらせようと思ったら、ベッドに押し倒さなきゃ駄目だからな。」
彼は、そんなふうに俺のことを見ていたのか、と改めて感心してしまうけど、恐ろしいことに、それほど間違ってはいないような気もする。もちろん、こんなことを言われたら、ちょっと相当不愉快だったりはするけど、でも、ベッドに押し倒されてのしかかってこられたりしたら、本音をしゃべる価値はあるんじゃないだろうか、などというふうにも思ってしまうのだ。
「結局、……恋愛なんか思い込みだよ。」
俺も、まだまだ青いから、しっかり挑発に乗ってしまう。
「どうして……。」
彼の、ちょっとずるそうな表情が、どき、とするほどセクシーだ。

 俺も、なんだかむきになってしまって、どうでもいいようなことにこだわって、恐ろしく本音に近いことを口走ってしまう。
「俺なんか、きっと、子犬にだって恋をできると思う。」
子犬にだからこそ恋をできる、のだろうか。だって、子犬なら、くんくん、甘えるだけで、余計なことは何も言わない。
「犬はかわいいじゃないか。」
子犬は自分のかわいさを知っているから、あんなにかわいいんだ。
「正確には、かわいいと『思う』、だろ?」
自分でも、必要以上に理屈っぽくなっているのがわかる。
「そうかもしれないな。」
彼は、ちょっと辟易したふうで、俺から顔をそむけてグラスの氷を傾けた。
「だから、思い込みなんだ。」
本当は、思い込みだとかそういうことは、どうだっていいことだと思うんだけど、久しぶりに会う彼の存在が、俺を頑なにしているような気がする。
「俺は子犬じゃなかったぞ。」
あたりまえだろ、子犬相手にセックスはできない。それとも、ひょっとしたら(!)、できるだろうか?
「うん……。」
でも、俺が言いたいのは、彼が子犬みたいにかわいいとか、そういうことじゃないんだ。

 なんだか疲れちゃった。弁解してばっかりなんだもん……。
「まあ、おまえの言っていることも、わかる気はするけど……。」
そうだよ、俺がわがままになっている理由なんか、彼には、すっかりお見通しのくせに、そうやって俺のことをいじめるんだから……。
「うん……。」
いつまでたっても、俺は、彼の掌の上から飛び出すことができない、ということなんだろうか。
「思い込みでもいいじゃないか。」
いいとか悪いとかの問題じゃない、と、声を大にして言いたい。
「そういうのは、開き直りだと思うんだけど……。」
結局、彼にいいようにあしらわれてしまうんだ。
「そうだよ。」
そうあっさり肯定されても困ってしまう。俺なんか、開き直ってるつもりで、相変らず人生にもてあそばれているのに……。

 俺は、本気で大きくため息をついてしまった。そんな俺をみて、彼はちょっと微笑ってから、
「つまり、『好きなんだ』と思い込むことができなくなったら、それで終わりだ、と言いたいわけだろ?」
そんなふうに、簡単な言葉で要約されると、少なからず、む、となってしまう。
「まあね。」
露骨にそっぽを向いてしまうところなんか、俺ってやっぱりガキなんだなあ。彼に要約されてしまうようじゃ、まだまだ修行が足りないのに違いない。でも、いったいどんな修行なんだろう。
「相手の気持ちなんか、本当のところはわかるわけがないんだから……。」
笑いながら言うなよ。俺は、真剣なんだから……。
「うん……。」
結局、彼と話して、なんとなく昔の自分の青さを思い知らされちゃったような気分になって、ちょっと後悔している自分が、かわいそうでもあり、こっけいでもあった。

 それで、というわけでもないんだけれど、もう1回だけ、果敢に挑戦してみようという気になって、
「なんていうか、相手に対する好奇心がなくなっちゃったら、もう、それで終わりなんじゃないかという気もする。」
ちょっと自分には扱いきれないようなことを、持ち出してみる。
「え?」
彼は、ちょっと驚いたようなふりをしながら、灰皿でくすぶっていた煙草を取り上げて、余裕で煙を吐く。
「何か新しい発見のないセックスなんてつまらないよ。」
ついつい、言葉が思いつかなくて、過激なことを口走ってしまう。
「新しい発見?」
例えば、こんなところが性感帯なのか、とか、こんな声を上げるのか、とか……。
「そうやって、SMとかにエスカレートしていくんだ……。」
そういう問題じゃないだろ、と思うんだけど、
「そんなことないよ。」
とにかく、まだ、そこまでエスカレートしてないからな、俺の場合は。
「まあ、それはそれで趣味の問題だとは思うけど……。」
もし、SMが趣味の問題だったとしても、俺みたいな甘ちゃんが、おままごと以上のセックスを(俺の場合、セックスと言うよりも、お医者さんごっこかもしれない)できるわけないだろ?
「今なら、『新しい発見』があるかもしれないぞ。」
俺が、その手の誘惑に充分弱いことを知っていて、彼は冗談めかして、自分の膝頭で俺の太腿を突っついてみせる。俺は、もうちょっとで勃ってしまいそうになって、改めて自分の修行の足りなさを思い知らされた。

 彼との3年間は、なんだったんだろう、と、ふと思ってしまう。今にして思えば、別に嫌いになって別れたわけでもないようだし、といって、いまさら彼とどうこうしてみてもしょうがないという気はする。
「そりゃあ、このまま、強引にどこかに連れ込まれちゃったら、そういうことになっちゃうとは思うけど……。」
きっと、俺も、酔っていたんだろう。『どこかに』とか『そういうこと』とか、まるで訳のわからないことを口走ったりして、
「おまえ、酔ってるだろう。」
彼にそんなことを言われてしまうのも、当たり前だと思う。
「未練たっぷりの人生って、俺、いいと思うなあ。」
やっぱり、あのときあの男と寝ていればよかったとか、もうちょっと別の男と浮気していればよかったとか、結局、俺は、そういう類のことしか考えられないんだろう。
「じゃあ、どこかに連れ込んでやろうか?」
彼が、冗談半分に言う台詞を、きっぱりと拒否できない自分が情けない。
「え……?」
もっと情けないことに、
「でも、待ち合わせだもんな。」
彼に言われるまで、待ち合わせの時間つぶしにこの店に来た、っていうことを、すっかり忘れてしまっていた。

 できるだけ、彼に気づかれないように腕時計を、ちら、と見てみると、まだ待ち合わせには遅れていなかったけど、いい加減に腰を上げないと間に合いそうにない。
「そろそろ、か……?」
俺は、彼のつぶやきを無視することにした。
「マスター、俺、そろそろ帰るよ。」
マスターは、特に俺のことを引きとめるでもなく、
「……。」
俺の勘定を伝票の切れ端に書いて、俺の目の前のカウンターに置いた。
「たまには、電話でもしろよ。」
彼の言葉は、意外なくらい淡々としていて、それがかえって俺の心を複雑にした。
「じゃあ。」
俺は、彼の言葉には返事をせずに、マスターにちょっと手をふってから、大急ぎでその店を出た。店の扉が、ぱたん、と閉まり、俺は、思い出の国に迷い込んでいた自分に気がついた。

(Y.Tに……)