斉藤さんのこと

金曜日, 5月 28, 2004

 気がつけば、俺は、すっかり斉藤さんに引き込まれちゃっていて、斉藤さんがどれくらい俺のことを思ってくれてるのかはわからないんだけど、少なくとも、俺自身は、会社で仕事をしていても、業務棟にいる斉藤さんが、今、何をやってるのかなあ、なんて思うようになっちゃってたのだ。もちろん、部屋にいる時は、斉藤さんが帰ってくるのを待って晩飯の準備をしたり、でなけりゃ、斉藤さんに後ろから羽交い締めにされていたりする状態で、これで俺の脳みそが斉藤さん色に染まらなきゃ、そっちのほうがどうかしてると思う。ところが、俺にとっての不幸は、俺と斉藤さんの勤務してる工場に繁忙の波っていうやつが打ち寄せてくることで、しかも、今回のは近来にないビッグウェーブだったりする。これまで、俺は、その波をもろにかぶるような仕事はしてこなかったんで、正直なところそれがどういう意味を持つのかは、あんまり、ぴん、ときてなかったのだ。でも、斉藤さんが仕事一色の毎日を送ることになってしまって、その波のすごさを思い知らされることになった。これまでずっとそういうふうにやってきてる斉藤さんは、かなり淡々と、
「しばらくは、会社に泊まるかもな。少なくとも、知の部屋に行く余裕はないと思う。」
なんて言うのだ。これまでの経験から、斉藤さんは、
「しょうがないだろ。」
みたいな感じで、でも、俺は、ある意味初めての経験な訳で、いったいどうなっちゃうんだろう、とかなり不安な気持ちでその斉藤さんの言葉を受け止めていた。そして、斉藤さんはその言葉通り、全然俺の部屋には帰ってこなくなってしまった。どうやら、自分の部屋に帰るのも、時々着替えを取りに帰るくらいで、ほとんどを工場の仮眠室で過ごしてるらしい。そして、これは最初からなんだけど、俺自身は、割とまめに携帯メールとか出したりしても、斉藤さんは、よくて一行くらいの返信を、たまに寄越すくらいで、ほとんど一方通行に近かったりしたのが、ここにきて、かなり音信不通状態になってしまった。
「全然、返事が返ってこないけど、斉藤さんは忙しいんだし、しょうがないよな。」
もちろん、会社の仮眠室に泊まってるような人に電話はできないし、俺は、工場でたまたま見かける斉藤さんの姿だけを頼りに毎日を送る羽目になったのだ。
 悶々とした状態で、俺は、『斉藤さん禁断症状』を発症しはじめていた。何日か完全に音信不通になってから、会社で仕事をしてるときに、珍しく斉藤さんから携帯にメールが届いたので、思わず、俺はトイレに駆け込んでしまった。ちょっとどきどきしながら内容を読むと、
『今日はちょっと早く帰れるけど、家に帰って洗濯する』
なんていう素っ気ないメールだったりして、まあ、だいたいのところは予想の範囲だったりするんだけど、それでもため息を禁じ得ない。斉藤さんがどんな仕事をしていて、その職場が今どういう状況か、俺なんか、ほとんど当事者みたいなもんだから、どうして斉藤さんが、今日もこんなメールを寄越したかなんて、それがわからないほど俺も馬鹿じゃない。でも、俺が馬鹿なのは、このメールを寄越した時の斉藤さんの気持ちがわからない、ということなんだろうな。
『きっと、斉藤さんのことだから、いろいろ言い訳するのが嫌で、こんな素っ気ない内容になっちゃうんだろうな。』
『ひょっとしたら、こんなメールなんか出さなくても、状況はわかってるんだから、ちゃんと理解しろよ、っていらだってるんだろうか……。』
『結局、俺が好きなようには、斉藤さんは、俺のことを好きでいてくれるわけじゃないんだろうな。……当たり前だよな、誰も、自分と同じようには自分のことを思ってくれるはずがないもんな。』
『ひょっとして、仕事が忙しいからじゃなくて、俺なんかいらなくなったから、俺の部屋に来なくなっちゃったんだろうか。……最近は、俺のメールにも全然返事寄越してくれなくなってたしな。』
連鎖反応的に俺の思考はそういう方向に漂っていって、ブルーな悪循環に陥っていく。こんな悪循環を放置するのは、本当に、俺が馬鹿なんだと思うんだけど、でも、俺にもどうしようもない。
 たぶん、世間的には、同じ会社のしかも同じ工場に勤務してるなんて、状況的にはかなり恵まれてると考えるべきに違いないけど、なかなかそうでもないところがさらに俺の懊悩を深めてたりする。例えば、工場でたまたま斉藤さんに会うと、手が空いてる時には他の人にはわからないように微笑ってくれたりすると、それだけで、かなり俺の精神状態は改善されたりして、ほんと、かわいいよな、俺。でも、忙しいと、斉藤さんと通路ですれ違っても、斉藤さんは一緒に歩いてる人と議論してたりして、俺のことに気がついてさえいないような状態で、
『さっきのは、俺のことを無視してたんだろうか……。』
俺のブルー度が深まってしまうことも多々あるので、どっちかっていうと、今の状況では、斉藤さんと同じ工場に勤務してるっていうのは、トータルで考えれば俺の精神状態をつらい方向にドライブする要因になってるのかもしれない。
 そんなだから、俺は、会社でも明らかに不機嫌で、でも、仕事は、サラリーマンだからしょうがなくこなすんだけど、それ以外の部分で、例えば、先輩の冗談に愛想笑いをしなくなったり、課長への返事がかなり投げやりになったり、その不機嫌な状態の『わかりやすさ』が、自分的にはかなり笑えてしまう。周りの人も、どうもおかしいとは思ってるらしく、先輩とかは
「どうしたの、栗坂くん、最近ちょっと変だぞ。」
なんてご機嫌を取ってくれたりするんだけど、まさか、俺の不機嫌の原因が、斉藤さんに(本当は、斉藤課長なんだけど、そんな呼び方をすると、マジで『隆史』にお仕置きされちゃうかもしれない。)あるなんてことは、さすがの先輩も思いつくはずはなくて、だから、俺は、ますます不機嫌な声で、
「どうせ俺は変です。」
なんて、言ってしまったりする。それに、その『斉藤課長』が仕事が忙しくてかまってくれないから不機嫌になってる、なんて、もし、自分の後輩にそんなことを言うやつがいたら、俺は、きっと、2発ぐらいは、ぐー、で殴ってしまうに違いない。なのに、自分がそんな状態だなんて、
「どうせ悪いのは俺なんです。」
俺は、ちょっと反省しながら、そういう台詞も付け加えてみるんだけど、先輩にこのあたりの少女心(おとめごころ)を理解してもらえるわけはなくて、結局、先輩の周りに飛び交っているはてなマークは、ますます元気にくるくる回ってたりする。でも、自分的には、まだ、会社にいるほうが気が楽で、つまり、仕事をしてる間はさすがにそのことを考えてる、イコール、かろうじて斉藤さんのことを忘れていられるから、禁断症状をある程度回避できるのだ。だから、俺の不機嫌状態にもかかわらず、仕事のほうは結構ハイペースでこなしてて、集中度が高い分、ひょっとしたらいつもより質もよかったりするかもしれない。
「じゃ、これも頼むかな。」
先輩はともかく、課長なんかは、本質的に俺の機嫌なんかに興味はないわけで、俺の仕事がはかどるのをほくそ笑んでいるのがありありで、課長のトレーに溜まっていた訳のわからない仕様書未満の書類が、次から次へと俺の机に飛んできたりする。でも、やることが明確になっているそういう書類を処理している間こそ、何とか俺は、斉藤さんのことを考えずにいられるわけで、普段なら『この課長、なにふざけてんだ』と思うようなその状態のほうがありがたかった。ただ、そんなに仕事ばっかりしてるわけにはいかないから、そこそこの時間になると自分の部屋に帰るわけで、その途端に俺はため息の海に沈んでしまう。まあ、もともと自分のことを馬鹿なやつだとは思っていたけど、ここまでしょうがないやつだとは思わなかった。