時間ゲーム

土曜日, 1月 31, 1987

 彼は、喫茶店なんかで待ち合わせをするのがあんまり好きじゃなくて、いつも、駅の前とか、なんとかの前とかで待ち合わせすることが多かった。
―店員の目と時計の両方を気にしながら待ってるのなんか、嫌だろ?
で、結局のところ、僕の方が待たされてしまうのだ。
―ごめん、ごめん、もっと早く着くと思ったんだけど……。
思うに、喫茶店なんかじゃ、あんまりおおっぴらに謝ったりできないから、遅れても大丈夫なように、彼は、当たり障りのない場所で待ち合わせようとするのに違いない。
―……。
僕が、ぶすっ、とすねてみせると、
―ごめん、ごめん、お茶でもおごってやるから、機嫌を直してくれよ。
なんて、お茶に誘ってくれるわけで、それだったら、最初から喫茶店か何かで待ち合わせればいいのに、と思うと、いつも苦笑してしまうのだった。
 でも、もう、待たされるのにも慣れちゃったから、最近は、僕も知恵がついちゃって、わざと10分ぐら遅れて行ったりする。だから、その時も、そのつもりで、ちょっと遅れて行ったんだけど、そうしたら、珍しくもう彼が来ていて、文庫本だかをえらく真剣な顔で読んでいた。
―ごめん、遅れちゃった……。
何だか話しかけにくい雰囲気で、僕は、出来るだけ無邪気な笑顔を装った。
―やぁ……。
それでも、彼が、ちょっと嬉しそうな表情をしてくれたので、僕は、ほっ、として次の言葉を探した。
―珍しいね、こんなに早く……。
皮肉のつもりはなかったんだけど、
―いつも、知を待たせてばっかりだからなぁ。たまには、がんばって、15分ぐらい前に来たんだ。
ひょっとしたら、彼は、気を悪くしたのかも知れない。
―じゃあ、ずい分待たせちゃったね。
彼は、僕の言い訳には答えず、
―とりあえず、お茶でも飲もうか。
すっかり行きつけになってしまった喫茶店の方へ足を向けたのだ。
 温かいお茶を飲むと、それだけで、心の柔らかさが回復するような気がする。だから、
―……。
湯気を立てるカップをソーサに、カチャ、と戻した僕の顔は、きっと無邪気に見えたに違いない。
―知……。
だからこそ、彼は、
―話があるんだけど……。
と、わざわざ、僕を呼び出したことを言い訳してみせたのに違いない。
―うん。
それとも、優しい彼のことだから、これは不意打ちなんかじゃない、と自分に納得させるために、
―ふう……っ。
ため息なんかをついて、僕に警告しようとしてみたのだろうか。でも、どっちにしても僕は、彼に会えたということだけで、ニコニコしてしまっていたから
―別れようか……。
彼はそんな努力を諦めて、今日の話題を口にした。
 いくらそうなんだろうな、とは思っていても、さすがにいきなりだったので、僕は、一瞬、その言葉の意味がわからなくて、
―え?!
なんて聞き返してしまった。たぶん、彼は、僕を納得させる言葉が思いつかなくて、
―……。
ほのかに湯気を立てるコーヒーカップに視線を落としてしまった。
―……なんだ、そういうことか。
僕は、彼のナイーブさに苦笑して、彼の代わりに、結論を探してあげた。
―もう、これっきり……?
そして、やっぱり、こういうことだったのかと、納得していたのだ。
―いや、嫌いになったとか、そういうことじゃなくて……。
せっかく僕が、彼のために出来るだけ当たり前の顔をしていたのに、彼はコーヒーカップに向かってしゃべるばかりで、僕の努力なんか、全然気づいてもくれなかった。
僕が、ぬるくなってしまった紅茶を、もう一口すすると、
―俺、疲れちゃったよ……。
彼は、やっと結論を口にした。
―……うん。
でも、今更、僕にとって、理由なんかどうだっていい。結局は、僕には、公然と思える人がいなくなってしまう、ということなんだから。
―好きだったよ、知。
そんな言い方で誤魔化されてしまうなんて、悲しすぎる。
―……。
僕は、今でも彼が好きなのに、今でも思い続けているのに、こんなたった一言で、彼にとっては、もう僕は過去の一人にすぎなくなってしまうのだ。
―じゃあ……。
彼は、何週間も前から、この台詞を繰り返し練習してきたんだろう。
―……。
彼に続いて立ち上がりながら、僕も彼が好きだったんだ、と、それでも、ちゃんと過去形で思える自分が、辛かった。
 いつもなら、喫茶店をでたところで彼は一瞬立ち止まり、
―何処へ行こうか。
と、僕に決めさせようとする。僕が
―どこでもいいよ。
と言うと、彼は真剣に考え込んじゃって、下手をすれば、うーん、なんて頭を抱えちゃいかねなかった。
―本当にどこでもいいよ。
僕にとって大切なのは、彼と一緒にいることだったけれど、彼は、そんなことを思ってくれただろうか。
―じゃあ、あそこにしようか……。
そうして結局、いつもとあんまり変わらないコースをたどることになるんだけど、
―また……?
と皮肉を言う僕の声が、決して嫌がってなんかいないことを、彼は感じてくれただろうか。彼と一緒に歩くこと、のほうが、途中の街の景色なんかより、よっぽど大切なことだった。だから、彼が、喫茶店を出て一瞬立ち止まり、僕を振り返った時、僕は、
―どこでもいいよ。
と返事をしてしまうところだった。
―どうする……?
けれども、彼のその言葉の響きは、僕にさっきの彼の別れ話を思い出させてくれた。
―……僕は、もう帰るよ。
きっと、彼は、僕のその言葉にホッとしたのだろう。そして、
―……じゃあ、駅まで送っていくよ。
僕が断るだろうことをわかっていて、
―ううん、いいよ。一人で帰れるから。
そんなことを言ってもくれたのだろう。
―そうか……。
僕が一人で歩いていくだろうことを、
―じゃあ、さようなら。
僕が振り返りすらしないことを、
―……。
僕が泣きまねしてみせることすらしないことを、彼は全部わかっていて、黙ったまま僕を見送った。