時間ゲーム

土曜日, 1月 31, 1987

 今更どうしたって仕方ないから、
―ほうっ……。
僕は、せめて大きくため息をついて、人混みの中を駅に向かって歩き始めた。
―どうせ『時間ゲーム』なんてこんなものなんだから……。
何も、大騒ぎするほどのことじゃない。
―疲れたよ。
と彼は言い訳してみせたけれど、きっと、疲れていたのは、僕も同じなんだろう。
―知がうれしそうな顔をしているのを見るのがうれしいんだ。
彼にとっては、それこそ、何気ない繰り言のうちの一つだったに違いないけれど、僕は、そんな言葉でさえ無視することなんか出来なかった。彼の言葉と、自分の言葉にがんじがらめになって、たぶん、すっかり無邪気さをなくしていた。この頃の僕は、自分のためじゃなくて、彼のために笑うこと、しか思いつかなくなっていたのかも知れない。
―……。
それはそれで、楽しいことでもあり、今となっては、愛しくなるぐらい懐かしいことだけれども……。
 そう言えば、昔、僕が少なくとも今よりは純情だった頃、電車の中で泣いている人を見たことがある。ちょうど間に合った電車の発車のアナウンスをぼんやり聞きながら、僕は、ぼんやりとそんなことを思い出していた。
―きれいな女の人だったっけ……。
その人は、座席に腰を下ろして、まっすぐ前を向いたまま、びっくりするぐらい涙をこぼしていた。勿論、電車に乗っている僕以外の人も気づいていて、彼女に注目しているんだけれども、彼女にとっては、そんなことはどうでもいいみたいで、あふれる涙を拭こうともせず、ただ、時々、鼻を、くすん、と鳴らすだけだった。
―よっぽどつらいことがあったんだろうなぁ。
僕はその時、ただ圧倒される思いで彼女を見守っていたんだけど、彼女は、自分以外を全く拒否しているかのように、独立した自分だけの世界にいた。
―ひょっとしたら、彼女も、あの時、こんなふうな気持ちだったんだろうか。
残念ながら、僕には、もうとっくの昔に涙を流すような純情さはなくなっていた。ただ、彼のことを思うと、胸が重くなるぐらい切なくて、諦めきれないため息が出てしまうのはどうしようもなかった。けれども、たとえ、彼が見ていないとわかっていたって、僕には泣くことなんかできない。
―なりふりかまわず、彼の後ろ姿を追いかけるべきだっただろうか?
想像するだけで、思わず、苦笑してしまいそうになる。
―ずるいよなぁ。
僕が泣いて追いかけたりなんか、絶対できないことを知っていて、きっと、彼は、あんなに素っ気ない『さよなら』だったのに違いない。投げ出してしまいたいような重い気持ちは全部、僕に押し付けて、自分だけ身軽になってしまうんだから……。
『好きだったよ、知。』
まあ、いつかはそういうことだろうとは思っていたけれど、それが、まさか、今日だなんて、思ってもみなかった。