知くん子守唄(ララバイ) -G

月曜日, 9月 30, 1996

ちょっと不機嫌そうな顔をした知くんが、俺の目の前で温かいココアを一口すする。
「知くん。」
ちら、と俺の方を見て、視線だけで返事をしてみせる知くんの仕草がかわいい。
「今晩、俺とデーとしてくれるだろう?」
こういう台詞をしゃべる時は、知くんお得意のポーカーフェイスを真似るに限る。
「え?!」
何も、そう大げさに驚いてみせることはないだろう?
「デート?」
そうだよ。
「晩飯につき合え、って言ってるだけじゃないか。」
知くんは、また、口をとんがらせてみせるんだけど、こういう表情の時は、そんなに気を悪くしてるんじゃない、ってことぐらい、俺にはわかってるんだぞ。
「つき合ってもいいけど……。」
何だよ、もったいぶって。
「いいけど……?」
どうせ、また良からぬことを考えてるんだろう。
「今日は、さんざん待たされたからなあ。」
ぎく。
そういう手を使うつもりなのか。
まあ、学生としては、そういうことは、本来、大いに喜ぶべきことなのだろうけど、例の3限目の講義がずるずる延長されちゃって、4限目に充分食い込んでおつりがくるぐらいに終わったのだ。
「申し訳ないが、もうちょっと続けさせてもらいたい。」
なんて、4限目には専門科目の講義がないのを知ってるもんだから、教授は平気な顔でそういうことを言うし、学生のほうも学生のほうだから、みんな、割合、
「仕方ないな。」
っていう感じで、結局、俺が知くんに謝ることになってしまう。
「そんなこと言ったってさ、仕方ないだろ?教授がいつまでたっても講義してるんだから……。」
知くんと話してる時は、よくよく気をつけてないと、すぐ形勢が逆転してしまうもんなあ。
「俺のために、途中で抜け出してきてくれればよかったのに……。」
ふだんは、だいたい5分前ぐらいには講義が終わっちゃうから、今日もそのつもりで知くんと待ち合わせてたのだ。
「また、そんな無理なことを言う。」
こうなると、駄々っ子だからなあ。
扱いが微妙になってしまう。
結局のところ、知くんとつき合ってると、いかになだめてすかすか、というところが重要だったりして……。
「だって、俺、学生会館で、独りで、ポケッとしててさ。」
俺の今までの経験からすると、俺を待っている間の知くんは、どうせカッコいい体育部の学生なんかを無遠慮な視線でじろじろ見てたに違いないんだけど、そういうことをはっきり言うと、知くんの処女心を傷つけちゃうから……。
「本でも読んでりゃよかったのに。」
だから、まあ、このぐらいのところかな。
「本なんか、つまらないでしょう?」
講義中は、ちゃんと、SFだかなんだかを読んでるくせに……。
「本が嫌い、っていうわけじゃないだろう?」
まあ、小説なんて、概してつまらない、というか、辟易させられるのが多いことは確かだけど……。
「だって、時間のほうが気になって、落ち着いて本なんか読んでるような心境にはなれないでしょう。」
ふうん、知くんが、こういう言い方をするのは珍しいな。
というわけで、このへんをもうちょっと追求してみると、滅多に出ない知くんの本音が出そうな気配だから、
「どうして?」
なんて、突っついてみる。
「4限目が始まっても先輩が来ないから、心配だったんだ。」
心配するのはあたりまえなんだろうけど、知くんもそういう感情を抱くんだな、なんて思うと、ちょっと意外だったりした。
「へえ、本当かなあ?」
知くんは、ちら、と俺の目を見てから、そっぽを向いて、
「俺……、本当に先輩のことを待ってたんだから……。」
ぼそっ、と言った。
その言い方がぶっきらぼうな分だけ、なんだか胸につかえるような感じで、
「知……。」
できることなら、このまま知くんをずっと独占してしまいたいような気がした。
「晩飯、つき合ってくれるだろ?」
知くんは意識してないんだろうけど、こんなふうに、こいつを一人にしておくべきじゃない、と思わせるような瞬間があるから、困っちゃうのだ。
生活をしている時は、俺の方がたじたじとなってしまうぐらい強いのに、何かのはずみで、本来の感情を保護(まも)っている外側の殻の部分が崩されてしまうと、とたんに脆くなってしまうようなところが知くんにはある、と思うのだ。
「先輩のおごりなら、考えてもいいよ。」
まあ、だいたいの場合において、憎らしいぐらいしっかりしてるんだけど、
「わかったよ。晩飯ぐらいおごってやるよ。」
脆い知くんのほうが、ある意味では、本質なんじゃないか、という気がするのだ。
「じゃあ、仕方ないから、つき合うことにするよ。」
それにしても、まったく、ここまで立派だと、あきれる状態を通り越して、苦笑してしまう。
そんなにはっきり言わないけれど、知くんだって、
「そのかわり……。」
独りでいるのが愉快なことだとは思っていないのだろう。
「フルコースでつき合うんだぞ。」
もちろん、時と場合によるところが大きいんだけど、
「フルコース?」
脆さを感じさせる時の知くんは、悪く言えばひっかけやすいのだ。
「いいだろ?」
だから、ちょっと迷ったふりをしながらも、
「昨日も、先輩のところに泊まっちゃったからなあ。今日ぐらいは、帰りたかったな。」
言い方さえ間違わなければ、
「着替えぐらい、俺のを貸してやるから、泊まっていけよ。」
かわいい知くんの寝顔が、今夜も見られる、ということになる。
それでもって、帰りにスーパーに寄って、有無を言わさずカレーかなんかの材料を買っていったりする。
「先輩、ひょっとしたら……。」
俺が、玉ねぎだとか、普段は高過ぎて見向きもしない牛肉だとかを、かごにポイポイ放り込むのを見て、知くんはイヤな顔つきになった。
「なんだ?」
だいたいのところはわかってるけど、俺は、知くんの機嫌はまるっきり無視して、
「世間の味に迎合するのはしゃくに障るけど、時間節約のためには仕方ないな。」
とつぶやきならが、ジャワカレーの辛口なる代物をかごに放り込んでレジの方へ歩き始めた。
「また、俺に作らせようっていうんですか?」
ふくれっ面をしながらも、知くんは、月桂樹だとかブラックペッパーだとかをかごに放り込むのを忘れなかった。
「いいだろ?材料費は俺がおごってやるから、知は作るだけでいいんだ。」
もちろん知くんは、
「ひどいなあ、そんなの詐欺だよ。」
と、いたく御立腹の様子。
でも、本当のところは、俺が、ジャワカレーなんかをかごに放り込んだのが、大いに気に入らなかったみたいなのだ。
「カレーのルーなんていうのは、やたら粉っぽいか、得体の知れない香辛料を入れすぎて苦くなってしまったようなのしか売ってないのに……。」
とんでもない、というわけだ。
そういう知くんの気持ちもわからないわけじゃないけど、
「今日のところは我慢しろよ。」
もう時間が時間なんだから、今から一時間も玉ねぎをいためて、三時間も煮込んで、なんてことをやってたら、夜食にだって間に合わなくなっちゃうよ。
「今日は、チーズでもぶち込んでみようかなあ。」
それに、腹も空いてて、まともなのが食いたかったから、
「チーズは今度にしような。」
味の冒険も思い留まっていただくことにした。
そういうわけで、上機嫌で料理をしてくれるという状態からは程遠かったんだけど、知くんには味に対するプライドみたいなものがあるから、
「知は、本当に、いい奥さんになれるよ。」
それなりの味のカレーが完成した。
「本当は、もうちょっと煮込んでからのほうがいいんだけどなあ。」
曰く、味がまるくなる、らしいんだけど、この際、そこまでぜいたくを言ってるわけにはいかない。
「知みたいな奥さんと結婚できたら幸せだろうなあ。」
こんなふうに机をはさんで飯なんか喰ったりしていると
「え?」
本当に知くんを独占してしまったような気になってしまう。
「……。」
珍しくマジな目つきで知くんを見つめてみたりもするんだけど、
「またそんな冗談を言って、俺のことを馬鹿にしてるんでしょう。」
やっぱり、そんな考えが大幅に甘いことを、思い知らされてしまったりするのだ。