誕生日のプレゼント 1

金曜日, 4月 3, 1998

 その店に俺が足を運ぶのは、きっと、自分のペースを取り戻したいときに決まっている。
「いらっしゃい。」
マスターは、俺の顔を見ても、にこにこするだけで、特に愛想を言ってくれるわけでもない。でも、俺は、そんなマスターを相手に、時にはむっつりしたまま、時には愚痴を並べ立てながら、何となくゆったりしていく自分を感じるのだ。
「あー、疲れた。」
別にそんなに仕事をしたわけでもないし、今日は泳ぎに行ったわけでもないのに、どうしてそんな台詞しか思いつかないんだろう。
「大変だね……。」
マスターは、俺がカウンターにもたれかかるのを待って、おしぼりを手渡してくれた。
「なんか、わけわからないよ。こんなに真面目に仕事してるのに……。」
俺は、こんな言い方をして、マスターに甘えようとしているんだろうか。
「仕事がうまくいってないのか?」
マスターは、そういってちょっと眉を曇らせると、いつものジンのボトルを俺に示して見せた。
「なんだかね。」
おれは、うなずきながら、愚痴の続きを並べている。
「お待たせ……。」
マスターは、グラスに氷とジンとライムのスライスを放り込んで、俺の前に置いた。透明な酒に浸された氷が、グラスに当たって、カラン、と透明な音を立てる。
「ほんとに、ため息が出ちゃうよ。」
俺は、きっと、甘えたいんじゃなくて、放って置いて欲しいんだ。孤独の中で癒される感覚が欲しくて、この店に足を運ぶんだろう。
『ひょっとしたら、俺は、詩人になりたかったのかな。』
俺は苦笑しながらグラスを傾けた。

 俺が、そんなニヒリスティックな感傷に流されていると、カウンターの隣に座っていた男の子が、俺に声をかけてきた。
「仕事、大変そうですね。」
それは、ごくあたりまえの、たぶん、サラリーマン一年生といった風情の初々しさを漂わせている男の子だった。
「え……?」
妙になれなれしいその口調に、俺は、違和感を押さえることができなくて、まじまじと彼の顔を見つめてしまった。
「あ、すみません……。」
俺に見つめられて、彼は、困惑したようで、ちょっと赤面しながらうつむいた。
「あっくんて言うんだよ。」
マスターは、俺に彼を紹介してくれた。
「へえ、いい名前だね。」
俺がそう言うと、彼は、
「あつし、っていう名前だから……。」
彼の表情が明るくなった。
『笑ってる方がいいな。』
俺は、そう思ったが、まさか、自分が彼の笑顔の原因だとは思わなかった。
「そう言われると、なんだかうれしいな。」
彼の目は、まっすぐ俺を見ている。
「僕って、単純だから……。」
そして、俺は、自分のペースを取り戻すはずだったのが、決してそうはならなかったことに気づかないままだった。他愛ない話を重ねながら、俺は、自分が不思議なくらい彼に傾斜しつつあることを意識せざるを得なかった。
『なんか、すごくかわいいな。』
いつの間にか、マスターも他の客も無視して、彼との会話にのみ注意を払っていた。
『これは、押し倒すしかないな……。』
俺は、決心を固めると、ちょっと間をおいてから、
「もしよかったら、他の店につきあってもらっていいかな……?」
できるだけさりげなく言った。彼は、一瞬、考えるふりをしながらも、
「はい。」
にっこりとうなずいてくれる。俺は、その笑顔に有頂天になりながらマスターに勘定を請求した。そして、マスターは、
「ありがとう、またね。」
俺達が二人で帰ることが当たり前みたいに、にこにこしながら送り出してくれた。

 店を出たところで、俺は彼を振り返り、
「これから、どうする?」
と尋ねた。すると、彼は、
「え?どうって……?」
と俺の顔を見返した。まったく、すぐ、そうやって、わからないふりをするんだから。でも、まあ、かわいいから許してやることにしよう。
「とりあえずの選択肢は、このまま俺に連れ込まれちゃうか、それとも、ほんとに他の店に飲みに行くか、かな。」
どうして、俺は、こんなストレートな表現をするんだろう。
「連れ込まれると、どうなるんですか?」
彼のこの無邪気さは、本物なんだろうか?
「さあ、なるようになると思うな。少なくとも、君の貞操は保証の限りじゃない。」
こんな時でも、ちゃんと言い訳してしまう自分がおかしい。でも、彼は、俺のそんな気持ちには全然頓着しないようで、
「僕は、どっちでもいいです……。」
っていうことは、連れ込まれたい、ってことなんだな。俺は、勝手に解釈することにして、他の飲み屋に行く、なんていう手順は省略することにした。