酒酔い 1

火曜日, 3月 31, 1981

 僕はいつものようにオン・ザ・ロックでグラスをながめている。
「飲みすぎるんじゃないぞ。」
兄貴がいつものように水割りのグラスを片手に少し笑ったような顔で、僕にそう言うので、僕は、
「うん……。」
と、うなずく。うなずきながら、水滴のついたグラスを手に持って氷のすき間を埋めているやに色の液体を飲みほす。氷が溶けて少しはうすくなっているはずなのに、僕の舌とのどはピリピリと痛み熱いかたまりが胃の中にどすんと落ちる。
「……ふう。」
それほどうまいと思うわけではないのだが、時々、いくらでも飲めそうな気がするときがある。
「今夜はいくらで飲めそうだなあ……。」
氷だけが残ったグラスをふるとカラカラと冷たい音がする。それが面白くて目の前で光を透かすようにしながらふっていると、兄貴があきれたような顔で横から僕を見ている。
「そんなに酒が飲みたいのか?」
兄貴はきっと僕のことをアル中か何かだと思っているのだろう。
「酒が飲みたいというわけじゃないけど……。」
氷とかガラスとかいった透明なものが、どういうわけか僕は好きなのだ。それにグラスが氷と触れ合ってチリンと鳴る音は心地よい音じゃないだろうか。
「ほら……。」
自分で『飲みすぎるな』と言っておきながら黄色いラベルのそのボトルを僕のグラスに傾けてくれる。
 僕が氷を足して、そのピリピリした液体をなめようとすると、
「飲みすぎるんじゃないぞ。」
と兄貴はまた笑ったような顔で言う。自分がついだくせに僕の責任みたいな言い方をするのがしゃくにさわるから、ちょっとふくれてそっぽを向いてみる。しばらく待ってみても何の反応もないから、ちょっと気になって兄貴のほうを横目でちらっと見ると、知らん顔をして水割りの続きを口の中に放り込んでいる。
「つまらないな。」
一人ですねていたって面白くも何ともないから、僕はため息でそう意思表示してカウンターの正面に向き直り、そして、抗議のためにコースターからグラスを取り上げ、またちょっぴり刺激性の液体をすする。
 カウンターの中でグラスを拭いていたマスターが突然振り返り、僕に話しかける。
「幸せね、知ちゃん。」
いきなりそんなことを言われても、心の準備ができていないから困ってしまう。
「え?」
思わず聞き返しながら、自分が赤くなってしまっているのがわかる。僕は酔いが顔に出ないらしいから、顔が赤いのを酒のせいだとマスターが思ってくれるか疑問だ。
「いいわね、アーちゃんなら頼りがいもあるでしょう。」
マスターは意味ありげな視線を僕から兄貴へ走らせ、また僕の赤くなった顔に向ける。
「冷たいから嫌いなんだ。」
やっと心は落ち着いてきたのだけれども、顔は相変わらずほてっているみたいだから、顔が赤いのは本当に酔っているせいかもしれない。
「またそんなこと言って、本当は好きで仕方ないくせに……。」
そう言われると言い返しようがないから、僕は黙り込む。
 そして、兄貴の方をちょっとうかがうと、おかしそうに笑った表情の兄貴と目が合ってしまう。
「ザマーミロ。」
と言っているのだろうか。そうじゃない時もあるんだけど、特に笑っている時なんか、兄貴の目の表情が何を意味しているのか、僕にはさっぱりわからない。
「何考えてるの?」
どうしても気になるから、思い切ってそう尋ねてみる。
「いや、ただ、かわいいな、と思って……。」
飲みかけていたグラスを口から話すと、兄貴はあわててそう弁解する。こういう、相手に対する無意味なほめ言葉は、常に最高の逃げ口上だと思う。
「そうやってすぐ逃げるんだから……。」
無駄だと思うから、それ以上追求するのはやめることにする。
 兄貴がいったい何を考えているのかは、酒を飲んでいる時だけではなくいつでも気になる。だから、時々、こんなふうに思い切って何を考えているのか尋ねてみることもあるけど、たいていはいつのまにかはぐらかされてしまっている。
「ずるいなあ……。」
と思わないわけじゃないけど、はぐらかされたことに、かえってほっとしているようなところがある。他人の心なんていうものは、わからないから楽しいんだ、と思う。いつだったか、ベッドの中で、
「本当に聞きたいか?」
と逆に質問された時、僕は返事に困ってしまったことがある。結局、首を横に振ってしまったが、その時の兄貴のほっとした表情が妙に印象に残っている。
 そして、二人とも黙り込んだままで、僕はグラスの中のいくぶん水っぽくなった液体を飲みほし、兄貴はほとんど氷の溶けてしまった水割りを口に放り込む。
「今日は静かなのね、アーちゃん。」
二人のグラスがからっぽになったのをマスターは目ざとく見つけて、水割りとオン・ザ・ロックを作りに兄貴の前に立つ。
「俺はいつも静かだよ。」
兄貴のその答えに、マスターはボトルを傾けていた手をもどして、アハハハと笑う。
「あらあ、じゃあこの前の騒ぎは何なのかしら?」
兄貴はしいて言い返さず、苦笑したまま新しい水割りを口に流し込む。
「そう言えば知ちゃんも静かねえ。二人とも、一人で来てる時はうるさいのにどうして二人で来ると静かなのよ。」
僕は知らんふりをして、ほとんど原液のままのその液体をすする。
 僕は、兄貴が騒いでいるところを知らない。兄貴も僕がはしゃいでいるところは知らないだろう。僕の抱いている兄貴の印象は、どちらかというと、物静か、といったイメージに近い。無口というわけじゃなくて、話はするが、いつも言葉を選んでしゃべっているような感じなのだ。だからというわけでもないだろうけど、僕も兄貴と話すときは考えながらしゃべってしまうようなところがある。そして、自分の言ったことが気に入らなくて言い直したりするようなこともしょっちゅうあるのだ。
 僕は、水びたしになってしまったコースターからグラスを取って、
「ひょっとしたらアル中になってしまったのかな。」
と思いながら、僕にとってちょうどいいぐらいにうすまった液体を飲みほす。本当に、今夜はいくらでも飲めそうな感じだ。