酒酔草 -健太郎 4

木曜日, 1月 7, 1999

 相変わらず、僕は、つまらない顔をしてトリスタンで彼を待っていた。しょっちゅうのぞき込んでる腕時計の長針は、遅々として進まない。
「ふうっ……。」
何度目かの僕のため息も、マスターの耳には届かないらしい。
「……!」
ポケットの中の携帯電話が振動して、誰かに呼び出されていることを告げている。大急ぎで取り出して、ちらと表示を見ると、やっぱり彼からの電話だけど、こんなタイミングの電話じゃ、あんまりいい話じゃないな、きっと。
「もしもし?」
でも、彼から電話をもらうのは、やっぱりうれしい。
「あ、俺だけど。」
彼の声が、心なしか沈んでいて、僕は、自分の不安を裏付けられたような気分になる。
「ごめん、まだ仕事が終わらなくて、ちょっと今日は行けそうにないよ。」
やっぱり、そういう電話か……。
「あ、そうか、じゃ、しょうがないな。」
自分では、できるだけ明るく言ってるつもりだけど、きっと彼には僕の声に潜む落胆の色が見えているんだろう。
「ごめん、この埋め合わせは、きっとするから……。」
この電話だって、彼は、仕事を中断してオフィスを抜け出して、なんとなく重い気分でかけているに違いない。
「そんなこといいよ、それより、早く仕事しなくっちゃ。」
僕は、そう言ったけど、彼にとって、それはいたわりの言葉だっただろうか?
「うん、……夕方のミーティングで、資料を新しく作り直さなきゃいけなくなって。」
本当に大変そうだなあ。
「大変だね。」
だけど、僕は彼に言うべき言葉を思いつかない。
「本当に悪かったな。」
彼の声が、ちょっと自嘲気味に響く。いろんな感情がごっちゃになって、僕はとにかく電話を切りたかった。
「ううん、……じゃ、僕は適当に飲んで帰るから。」
『また、電話するよ』という彼の言葉が待ち遠しかった。
「うん、またね。」
ちょっとため息が出そうになったけど、マスターがこっちを見てるのに気がついたので、僕は、水割りのグラスを傾けてそれを誤魔化した。
 今日はもう、彼が来ないとわかってるのに、ドアが開くと、つい、そっちを見てしまう。なんだ、大介か。
「やあ。」
僕は、ちょっと心が軽くなったような気がして、大介に声をかけた。
「あ、久しぶり。元気でやってる?」
そういえば、大介にもしばらく会ってなかったなあ。
「元気だよ。……そういう大介は?」
すごく無邪気な笑顔をしてみせてから、
「うーん、まあまあかな。」
大介は、僕の隣に1つ空けて腰を降ろした。
「あら、詰めて座れば?寂しい同士。」
マスターは、さっさと大介を僕の隣に追いやる。
「今日は一人?」
僕の隣に移りながら、大介は、ちょっと不思議そうな顔で僕に尋ねた。
「うん、なんだか忙しいらしくって」
そんなふうに言っちゃいけないと思うんだけど、どうしても、ちょっと投げやりな言い方になってしまう。それを聞きつけたマスターが、また、僕たちの会話に介入してくる。
「大変なのよ、健太郎は。……でも、大介も不幸なのよね。」
マスターは、そうやって、僕達のことをいたぶろうとする。
「不幸じゃないよ、僕は。」
大介は、マスターの言葉に、ちょっとマジなくらいはっきりと抗議した。
「すごく幸せだもん、僕は。」
『ひょっとして、この間、いっしょに座ってた人かな?』
僕が疑問符付きの目つきをマスターに向けると、
「今度も、また遠距離で、そのうえ妻子持ちなのよ、大介ったら。」
ちゃんとマスターの解説が得られるところが笑えてしまう。本当におしゃべりなんだから。
「あら、おしゃべりじゃないわ、正しい情報を提供してるだけよ。」
絶句……。
「僕、本当は、すごく迷ったんだ、彼とつき合うのを。」
ロックグラスを傾けながら、大介は、
「でも、一番最初の時に彼が、『遠距離で妻子ありだけど、きっと君に寂しい思いはさせないから』って、言ってくれたから……。」
なんて言い訳をしてる。その時の大介の顔が、すごくかわいかった。
「まー、うそつきな男ね。好きになれば好きになるほど寂しいのが、遠距離恋愛なのに。」
マスターは、煙草の煙を、ふーっ、ともらしながら
「電話じゃこんなに近いのに、どうして抱き締めてもらえないんだろう、って泣くのが遠距離でしょ?」
なかなかきびしいご意見だったりする。
「……そこまで言わなくても。」
大介は、ちょっとしょげて弱気な目つきになっている。
「僕だって、わかってるよ、そんなことくらい。」
そう言って、大介はもう一度グラスを傾けた。
「泣きたくなったら、いつでもこの胸を貸してあげる。」
マスターは、大介の顔をのぞき込むようにして言った。
「……ありがとう、でも、マスターの胸だけはやめとくよ。」
さすがに大介も負けてなくて、
「まー、失礼ね。」
マスターの不興を買っていたりする。
「それだったら、まだ、健太郎のほうがいいよ。」
おっと。急に、どきっとするようなことを大介が言う。しかも、それを言う大介の目つきは、僕にとって、すごく誘惑的だったりして……。
「そうよ、あんた達ができちゃえばいいのよ。」
マスターは、例によって、無責任発言を繰り返す。
「そうだね、そうすればよかったなあ。」
だ、大介……、君は、酔ってるな。
「で、できちゃったら、ちゃんと報告するよ。」
僕は、そう言って、マスターをごまかすのが精一杯だった。なぜ、って、カウンターの下では、僕の太腿に大介の太腿の暖かさがしっかり伝わってくるような状況だったから。
 その日のトリスタンには、何人かのお客さんが入ってきて、また、帰っていったけど、僕は、ずっと、大介との他愛ない話に興じていた。もちろん、話に興じるだけじゃなくて、カウンターの下で、僕の脚は大介の脚とじゃれ合っていた。その時の僕には、もう、大介をトリスタンに残して独りで帰るなんて考えられなかった。それで、さり気なく腕時計を見て、
「そろそろ帰ろうかな。」
と言いながら、ちら、と大介を見た。僕の言葉は、疑問符付きで大介の耳の届いただろうか?
「じゃ、僕も帰るよ。」
大介は、僕の言葉に、にこっ、と笑って見せたけど、目が本気だった。
「二人でがんばるのよ。」
どうしようもなく無責任なマスターの言葉に送られて、僕と大介は、二人でトリスタンを出た。店を出たところで、大介が僕を振り返って、
「これからどうする?」
と言った。
「うーん、どうしようか。」
すごく難しい状況で、僕は、どう言っていいのかわからなかった。
「僕の部屋に来てくれれば、コーヒーくらい入れるよ。」
でも、大介は、さらっとそう言って、にっこり笑った。
「じゃ、ごちそうになりに行こうかな。」
だから、僕も、さらっとそう言って、にっこり笑った。
「じゃ、行こう。」
大介は、てきぱきとタクシーをつかまえると、僕を車の中に押し込んだ。