酒酔草 -大介 5

水曜日, 2月 2, 2000

 彼ほど『真面目なサラリーマン』なわけじゃないけど、一応僕だってサラリーマンだから、会社に行けば斜め前の席に課長が座ってたりする。そして、滅多にないことだけど、課長から
「1泊2日で出張してくれ。」
なんて言われちゃうこともあるのだ。基本的にあんまり出張は好きじゃないので、いつもは、生意気にも、
『えー、出張ですかぁ。』
とかって言っちゃうんだけど、出張先が彼のいる街だったりすると、
「はい。」
いつもと違って僕の返事がやけに素直で、課長が首をひねってたりする。そんな課長の様子には知らんぷりをして、何よりも先に彼に連絡しなくっちゃ、と思ってしまうところが、恋をしている、ってことなのかなあ。
 彼から電話をもらうのは全然平気なんだけど、彼に電話をかける時は、いつもどきどきしてしまう。自分ではあんまり意識してないつもりだけど、きっと、電話をかけるたびに、今電話してもだいじょうぶかな、と心の底で思ってるからだろう。そのせいか、考えてみれば、声を聞きたいんじゃなくて何かを伝えたい時には、だいたいの場合、電話をかけるよりは、携帯電話にメールを送っているような気がする。
 その時も、僕は、さっそく電話じゃなくてメールを書いていた。
「出張でそちらに行きます。時間を取ってくれるとうれしいです。」
言いたいことは、いっぱいあるけど、それを言葉で伝えるのは、僕には難しすぎる。でも、電話で直接話したって、同じくらい難しいような気はするけど。とりあえず、最小限のことだけをメールに書く。……それに、たぶん、時間のある時に、彼が電話をかけてきてくれるだろう。と思ってたら、そのメールが届いたか届いてないかぐらいの時に、もう僕の携帯が振動した。
「もしもし?」
きっとくれるとは思ってたけど、こんなに早く電話をしてくれるなんて。……でも、よかった、本当に電話をくれて。
「いつ来るんだ?」
彼の声が、いきなり質問してきた。
「えーと、来週の水曜日の夕方かな。」
僕の答えにかぶさるように、彼の質問が続く。
「仕事は、何時頃まであるんだ?」
「たぶん、遅くても6時には終わるとは思うけど……。」
彼の声は、いつも、押し返せないような強さを含んでいる。
「どこに泊まるんだ?」
「いつ帰るんだ?」
彼は、嵐のように尋問して、必要な情報を全部収集してしまった。やっと一段落ついたので、僕が、
「そっちに行った時に、会ってもらえる?」
そう尋ねると、即、
「当たり前じゃないか。」
彼はそう答えて寄越した。
「うまいものを食いに行こうな。」
どうやら、彼は、心の中で、すでに、僕の滞在中のプランニングをすっかり終えているみたいだった。
「うん。」
そして、その時から、僕の中では彼と過ごす時間への秒読みが始まっている。

 もちろん、その街は、初めてじゃなかったんだけど、僕は、ちょっと不安な気持ちで到着ロビーの方へ歩いていった。
『本当に来てくれてるのかなあ……。』
彼を信じてないとかいうのではなく、ひょっとして、急に仕事が入っちゃったんじゃないか、とかそんな思いが僕を弱気にしていた。だから、ロビーに入っても最初は彼の姿を見つけられなくて、僕は、
『やっぱり来てくれてないんだ……。』
思わずため息をつきそうになった。すると、その時、僕は、視線の隅で小さく手を振ってくれている人の姿に気づいた。
『よかった……!』
彼は、ちょっと微笑いながら、僕の方に歩いてきた。
「ありがとう、わざわざ迎えに来てくれて。」
僕が言うと、彼は、
「すごく恐そうな顔をして降りてくるから、どうしたのかと思ったよ。」
そんなことを言う。
「え、そうかなあ、普通の顔だったけど……。」
だって、そんな、にやにやしながら歩けないよ。
「それに、俺のことに全然気がつかなくて、怒ってるのかと思ったよ。」
『すごく緊張しちゃってたから』なんてことを言うと、また笑われてしまいそうなので、僕は黙ってることにした。
「怒ってなんかないよ。」
僕の答えを待たずに、彼は、僕の荷物をさり気なく奪い取って歩き始める。そして、ちょっと振り返って、
「でも、俺を見つけて、にっこりしたのがすごくかわいかった。」
また微笑った。えー、そんなこと言われると照れてしまう。僕は、なんと言っていいのかわからなかった。
 それにしても、こうやって、出張先の街で誰かに出迎えてもらうと、すごくほっとする。さっきまでの不安が嘘みたいだ。
「こっちだ、こっち。」
彼は僕の荷物を手に、僕の前をさっさと歩いていく。
「え、車で来てくれたの?」
どうやら駐車場の方へ歩いて行こうとしているらしい。
「そうだよ。」
彼は、こともなげに言う。
『だって、いつも仕事には、電車で行ってるはずなのに……。』
僕の疑惑の視線をものともせずに、彼は、
「こいつだよ。」
一台の車のところに立ち止まって、後部座席に僕の荷物を放り込んだ。
「とりあえずホテルにチェックインしよう。」
彼は、慣れた手つきでハンドルを操りながら、なめらかに車をスタートさせた。
「……。」
僕は、彼の言葉にうなずくだけにした。だって、車の助手席に乗ってたら、ほとんど運転手の意のままに行動せざるを得ない。ほとんど、拉致されたも同然だもんな。
「何か言ったか?」
僕は、後ろに流れていく街の灯りをながめながら、ちょっと微笑って黙っていた。
『できることなら、このまま、ずっと拉致されていたい……。』
でも、彼の車が到着したホテルは、僕が予約したホテルではなかった。
「あれ、ここじゃないよ。」
僕がそう言うと、彼は、こともなげに、
「ああ、俺がキャンセルしといた。こっちのほうが、飯がうまいから、いいだろ?」
そ、それは、別にいいけど……。彼は、さっさとチェックインして、部屋への案内も断ると、まるで自分の部屋に案内するみたいに僕をホテルの部屋に連れ込んでしまった。そこは思っていたよりも広い部屋で、すっきりした、少なくとも僕と彼にとっては居心地の良さそうな部屋だった。
「疲れただろ。」
彼は、僕の上着を脱がせると、クローゼットのハンガーに掛けてくれた。そして、自分も上着を脱いでハンガーに掛けるとクローゼットのドアを閉じて、そのまま僕の両肩を抱いた。
「……。」
僕は、ねっとりした彼のkissに絡め取られながら、そのままベッドに押し倒されてしまった。まだ、窓の外は明るい街の景色が広がっているのに、こんなふうになっちゃっていいのかなあ。
 ベッドの中での彼の腕枕は久しぶりだったけど、僕にとってはもう、欠くことのできないものになっていた。
「結婚してる、って知ってたら、つき合ったりしなかったのに……。」
彼の耳元で、僕は、こっそりささやいてみた。
「あれ、最初に会った時に、そう言わなかったっけ?結婚してる、って。」
言ったかもしれないけど、そんなことはもうどうでもいいんだ。僕が言いたいのは、本当はそういうことじゃないから……。なのに、僕は、相変わらず、彼を困らせるような台詞を口にする。
「そうだよ、いつの間にかつき合わされていて、実は結婚してたなんて……。」
彼も、僕が単にじゃれてることがわかってるから、指先で僕のうなじをくすぐったりしながら、僕のことを適当にあしらってくれている。
「そうだっけ?」
でも、結婚指輪はしてないんだ……。
「最初に知ってたら、絶対つき合ったりしなかったのに……。」
本当につき合ったりしなかったのか?僕には、そんなことを仮定してみることすらできない。
「尋ねないから……。」
彼の指は、今度は、僕の耳元をくすぐっている。
「ひどいよなあ、だまされてつき合わされたんだもん。」
僕は、すねてみせるけれども、そうすると、彼は、ごそっ、と寝返りをうって僕を正面から見つめながら、
「嫌だったのか?」
そんなふうに切り返してみせる。彼に見つめられただけで、僕は、
「……ううん。……そんなことないけど。」
もう、返す言葉がなくなってしまう。
 ちょっと困ってしまって、僕は、彼の肩に顔を埋めるようにして彼の視線を避ける。ずっと、このまま彼の腕の中でいられたらいいのに……。でも、まさか、いっしょにホテルで泊まってくれるなんて……。うれしいことはうれしいけど、
「……本当にだいじょうぶ?」
ふっと不安になって、僕は、尋ねてみる。それは、まるで、彼に尋ねているというよりは、自分に尋ねているように響く。
「何が?」
彼は、無理矢理僕の顔をのぞき込むようにして、僕の気持ちを推し量っているようだった。
「だって、こんなふうに僕といっしょに泊まったりして……。」
でも、そんな僕の質問には、彼はにっこり笑って何も答えてはくれない。答えてくれない、っていうことは、きっといろいろあるんだろうな。僕は、勝手に想像して、ちょっと息苦しくなる。
「この週末は、家族サービス?」
僕の中の何かが叫んでいる。
「ああ。」
彼は、かすかにうなずいた。
「いいなあ、かわいいんだろうなあ、子供って……。」
彼は、ふっ、と苦笑して、
「そうかな。」
と言った。
「なんだか、楽しそうだな。」
僕がそう言うと、彼は、もう一度、ふっ、と苦笑してから、
「楽しくない、って言うわけじゃないけど、きっと、大介が思ってるのとは違うと思うな。」
また、僕の顔をのぞき込んだ。
「ずるい言い方かもしれないけど、こうやって大介といっしょにいる時と、家族といる時とじゃ、カテゴリが全然違うんだ。」
ふうん。
「子供は、かわいいことはかわいいけど、あれは、なんて言うか、代償だと思うんだ。」
え?
「子供って、本当に手間がかかって、自分の時間を割いてやってる、っていう感じなんだ。」
こういう話題の時の彼は、僕の隣にはいるけれども、ずっと遠くに行ってしまっているような感じがする。僕は、自分でこんな話題に彼を引きずり込んでおきながら、心の底で苦い後悔を味わっていた。
「本当に、拘束されてる、っていう感じかな。だから、その代償として、子供はかわいいんだ、って思うんだ。」
そこまでしゃべって、彼は、ちょっと言い過ぎたかな、という目つきで、僕の瞳をのぞき込んだ。そして、これ以上しゃべりたくない時に彼がいつもやるように、例のとびきり上手なkissで、僕の思考回路を無理矢理OFFにしてしまったのだ。