彼の暖かくてたっぷりした肩に顔を半分埋めながら、僕は、
―彼は、いつまで僕にとっての特別な人でいてくれるんだろう。
まるで、他人事のように、ぼんやりと考えていた。そもそも、こんなことを考えること自体が、相当猛烈あぶないことなのかもしれないけれども、もし、こんなことさえ考えられないぐらい、例えば、のめり込んじゃってるとしたら、それはそれで、相当猛烈あぶないことなんじゃないだろうか。僕が彼の肩の上にのせた頭を動かそうとした気配に気づいたのか、それとも、僕のしばらくの沈黙の意味を量りかねたのか、彼は、僕の指と絡まった彼の指をほどいて僕に警告してから、
「ふう……っ。」
彼自身でさえ気がつかないくらいの、ゆっくりしたため息をついた。
そんな意味深なため息を聞かされると、ひょっとして本当はたいした意味はないのかもしれなくても、やっぱり、ため息の意味をあれこれ考えてしまう。そして、なんだかんだと考えているうちに、つい不安になって、僕も、
「僕のこと、好き?」
あまりにも本音に近いことを口走ってしまう。こんな他愛なく響く質問に、こうまで重い意味を持たせてしまうなんて、きっと僕はどうかしている。言ってしまった後で、今からせき払いして誤魔化したらまだ間に合うかもしれない、なんて子供じみたことを考えているのだ。
「ん?!」
僕の頭を肩の上から腕の上に移しながら、ゆっくりと僕の方に寝返りをうつ彼は、さすがにそこまでは思いつかなくて、多分、単なるいつもの僕の悪ふざけだと思うだろう。
―単なる悪ふざけだよ。
そう思ってもらうためにも、できるだけ知らんぷりをしていよう。
「どうしたんだよ、急に……。」
でも、彼が僕をのぞき込んだ目つきは、ちょっと真剣だった。そんな目つきをしながら、もしも冗談にしたって、
『嫌いだよ。』
なんて彼に返事されてしまったら、彼を思う僕の心は、つらくて情けなくて、壊れてしまうかもしれない。
―間違えただけなんだ。
だから、僕は、
「別に……。」
ちょっといたずらっぽく笑って、いつもの僕の悪ふざけをなんとか誤魔化してしまう。
彼は、もう一度、物問いた気な目つきで僕の目をのぞき込んで、僕がちょっと微笑うのを確かめてから、また、ゆっくりと、もとの姿勢にもどった。
―僕のこと、好き?
僕も、ゆっくりと自分の想いを確かめながら、居心地のいい彼の肩に、自分の頭をもたせかけた。
「……。」
彼は、今度は、ため息をつくかわりに、僕の首に回した手をゆっくりと抱き寄せてくれる。
―きっと、僕は、幸福なんだろうな。
彼の余裕のある腕に抱かれていてさえ、僕は他人事のように考えてしまう。これは、例えば、無意識の防衛本能なのかもしれないし、僕自身の限界を教えてくれるものなのかもしれない。どっちが正解だったとしても、残念なことには違いないけど、さっき僕の目をのぞき込んだ彼の目がもの問いたげだったのは、そんな形而上学的なことじゃなくて、端的に言えば、僕が幸福なのかどうかを尋ねたかったからだと思う。だとしたら、防衛本能も僕の限界も、単なる僕のプライバシイに過ぎない。
ひょっとしたら、これで最後の質問になってしまうかもしれないキーワードを繰り出して、相手に反応を確かめながら、とりあえず自分の幸福の基盤が無事なことを確認していくような、そんな空虚しい作業を積み重ねていく。
ちょっとでも彼が扱いを間違えれば、調子が狂ってしまうだろうわがままな僕の心が、彼の腕に抱かれている。
―時間ゲームか……。
素直に彼の暖かさに浸りきってしまえない自分が、自己嫌悪を通り越して、愛しくなってしまう。
「好きだよ……。」
不意に響いてきた彼の声が、ちょっと緊張している。
―……ふう。
僕は、思わずにっこりして、あお向けに寝ている彼におおいかぶさるようにして、彼の首に抱きついた。
―好きだよ、か。
もし聞き飽きるほど聞かされた台詞だったとしても、やっぱり、耳元でこんなふうにささやかれるのは、うれしいことじゃないだろうか。
きっと、優しい彼のことだから、言うべき言葉をあちこち探して、やっと見つけた言葉を言ってくれたんだろう。
―ありがとう。
なんだか僕は、空虚しい作業を続けるのもそんなには悪くないのかもしれないな、なんていう錯覚に陥って、彼のキスに全身をゆだねてしまいそうになる。
「それにしても、珍しいじゃないか、急にこんなことを言い出して……。」
彼に痛いところを突かれてしまう。
「うん……。」
もし何か言い訳をしてみせても、言い訳をしなければならない、ということが彼を納得させてしまうだろうし、だからと言って、今の僕には彼の言葉を明確に否定してしまうだけの元気はない。
「そうかもしれないね……。」
結局、あいまいな言い方で誤魔化してしまおうとする。
「……。」
彼がおもしろがっている様子なのがくやしいけれども、ここで何か言ったら彼の思うつぼだから、じっとポーカーフェイスで気づかないふりもやむを得ない。
でも、考えてみれば、昨日までの僕なら、とてもこんなにストレートな質問をすることはできなかっただろう。沈黙が僕を助けてくれるわけじゃないとは知っていたけれど、誰かの目をのぞき込む行為が、ろくでもないおしゃべりよりも有意義なんだろうと信じていた。
「僕、うぬぼれていることにしたんだ。」
僕が真面目に言ってるのに、彼はてんでわかっちゃいなくて、
「え?!」
僕の目をのぞき込んで笑ってみせるのだ。
「どうして……?」
もちろん、僕は、誠意をもって、
「自信がないから……。」
と答えたけれど、
「……はは。」
すっかり笑われてしまった。
「笑うことはないだろ?」
ちょっと、む、となったけど、とりあえずは抗議の意思の表明にとどめておく。
「ごめん、ごめん……。ただ、おまえにもそういうところがあるんだと思うと、おかしくて……。」
謝ってるんだか、馬鹿にしてるだか、よくわからないところがしゃくにさわる。
ひょっとしたら、彼は、僕がデリケートな少年なんだ、ということが、まったくわかってないのかもしれない。だから、
「僕なんか、弱点だらけだよ。」
僕がそう言っても、彼は、
「その『弱点』というのを、せめて一つでいいから教えてくれよ。」
なんて言うのだ。教えてやる気なんて、もちろんないから、
「もう一回、僕のことを、好きだ、って言ってくれたら、教えてもいいよ。」
子供みたいにだだをこねてみせる。
「そこまで、好き、って言って欲しいんなら、いくらだって言ってやるよ。」
彼は、わざとぶっきらぼうに、僕の耳元に口を寄せて、ふっ、と息を吹きかける。
「くすぐったい……。」
ちょっと計算が違っちゃったらしいので、体をよじってやり過ごすつもりだったんだけど、彼も意地になって、簡単には許してくれそうもない。
「だいたい、今さら『好き』なんて言ってもらったって仕方がないよ。」
ずるい僕は、すぐ、話題をすりかえちゃうのだ。
「どうして?」
彼も、仕方ないな、という苦笑いで、僕の言い逃れを黙認してくれた。
例えば、ラジオだかなんだかで恐ろしく懐かしい曲を聞いて、純情だった頃の自分を思い出すように、言葉にだって、僕自身の経験があるから、
『好きだよ。』
なんていう他愛ない言葉もその例外ではあり得ない。もしも、この言葉を、彼の腕枕の中でしか聞いたことがなければ、
『好きだよ。』
とささやかれることは、僕にとって、もっともっと切実な意味を持ったに違いない。けれども、現実は、
「『好きだよ』なんて言ってもらうだけで満足できるほど純情じゃない。」
ということなのだ。もっとも、言葉だけで満足できるほど純情だった頃が本当にあったのか、という問題になると、これはもうほとんど保証の限りじゃないんだけれども……。
どっちかというと、純情じゃないのは、僕自身が遺憾であるべき問題なんだけど、たぶん彼は、それが彼自身に起因する問題だと思ってたらしくて、
「満足できないのは、信用できないからなのか?」
かなりシビアな答えを僕に要求する。それとも、本当に彼自身、やましいところがあるということなのかなあ。そうだとしたら、思わず笑ってしまうぐらいおかしいんだけど……。そう言う僕は、純情じゃないから、
「それもあるかもしれないけど、僕自身、好きと言われても、素直に有頂天になりきれない、ということが憂うつなんだ。」
それはそれで、結構、意味深もいいとこの答えを平気な顔で言ってしまったりする。
「ややこしいんだなあ。」
僕がどんなにがんばって、ああだこうだと言い訳してみせても、僕自身の問題が彼の問題にすりかわるなんていうことはあり得ない。
「でも、言ってくれるんなら、拒まないよ。」
結局のところ、なんだかんだ言いながらも、
『好きだよ。』
かなんか言ってもらいたいわけで、彼は、
「あきれたやつだ。」
苦笑いながら、僕の体を腕の中に抱き込んでくれた。
「好きだよ……。」
そして、僕の耳の中にそう吹き込んでから、ちょっと僕の耳たぶをかじるふりをした。
でも、考えてみれば、彼の口から一日のうちに二回も、
『好きだよ……。』
何ていう台詞を聞くのは初めてなのかもしれない。
「うん……。」
意味もなくうなずいてみせる僕は、純情じゃないはずなのに、彼のその言葉に溺れてしまいたくなる。なのに、かろうじて踏みとどまるのは、彼以前の男達の、
「好きだよ。」
という台詞の数々が、僕に警告を繰り返してくれるおかげだ。そして、
『うぬぼれていることにしたんだ。』
という、さっきの自分自身の台詞が、確かに溺れてしまう必要なんか全然ないことを教えてくれるおかげだ。たぶん、
「うれしい……。」
ゆっくり微笑ってみせることが、僕にとっても、彼にとっても、唯一、納得できる反応だろう。
「……。」
たっぷりした彼のキスは、僕のかたくなさを柔らかくしてくれる。
それは、たぶん、単なる思いこみに過ぎないんだろうけど、彼の腕枕は、僕にとって、最適な環境のような気がする。
「僕の弱点はね……。」
寝返りをうって彼に背を向けても、彼が後ろから包み込むように抱き寄せてしまう。
「ん?!」
僕の弱点は、きっと、彼のことを好きだ、ということだろうなあ。
「……。」
でも、そのことを言葉にして言おうとすると、なんだかおかしくなって、思わす笑ってしまう。
「何を喜んでるんだ……!」
背中から彼に抱かれていると、心がどんどん子供になっていく。
「ううん、なんでもない……。」
僕が彼のことを好きだ、ということを、彼が気づいていないなんていうことがあるだろうか?だとしたら、僕の弱点は、彼のことを好きだ、ということではなくて、彼が僕のことをどう思っているかを試してみずにはいられない、ということなのかもしれない。
『僕のこと、好き?』
彼は、無邪気に響くその質問を否定するだけでいいのだ。彼は、僕の弱点を『せめて一つ』なんかじゃ済まないぐらい握っているんだ。そんなことに今さらのように気づいて、僕は思わず自嘲ってしまった。
電話 -腕枕の中で
火曜日, 5月 31, 1988