電話 -電話

火曜日, 5月 31, 1988

 そういえば、僕が彼の部屋から帰ろうとしてた時に、
「あとで電話するよ。」
なんて、彼がウインクしてみせたことを思い出して、急に電話の前から離れられなくなる。落ち着いているふりで、例のチーズケーキを紅茶でのどに流し込んでみても、やっぱり、待ってしまう。
―いつ電話してくれるんだろう。
ちょっぴりイライラしながら、すっかり独りでは暮らせなくなってしまっている自分に気がつく。自分の private time に対する他人の侵入を許してしまうなんて、こんなに弱くなっているとは思わなかった。それとも、弱くなったんじゃなくて、昔の僕が、単に強がっていただけなんだろうか?
―ほんとうは、きっと、昔から、僕は、誰かの電話を待っていたんだ。
だから、僕は、こうして彼からの電話を待っている。内心はドキドキしていても、すっかり落ち着いたふりをして、さり気ないポーズで……。
 でも、睡眠不足がたたったのか、僕の頭の中では、ステレオのスピーカから聞こえるジークの音がふくらんで、いつのまにやら眠ってしまっていることに気づく。もう、待ちくたびれちゃった……。
「……電話!」
ベルが鳴っていた。
「もしもし……?」
自分の声が受話器から聞こえてくる。
「もしもし、眠ってた?」
彼の声が、ちょっと笑っている。
「多分、もう眠ってるんだろうと思って、6回鳴らしたら切るつもりだったんだ。」
だって、眠かったんだもん。
「そんなに何回も鳴らした?」
ベルが鳴って、すぐに電話に出たつもりだったので、彼の言葉は、僕にはちょっと不本意だった。
「5回かな。」
えー?!そんなに鳴ったかなあ。
「目が覚めて、すぐ、受話器を取ったんだけどなあ。」
もう一回、電話の向こうで彼の笑う気配があって、
「それとも、まだ帰ってないのかと思ったよ。」
それは、いったい、どういう意味だよ。
 まあ、彼のトゲはいつものことだから、気にしないことにしよう。それよりも、今は、彼の声がまた聞けた、ということだけで、充分うれしくなってしまう。
「どういう心境の変化なんだよ、僕が部屋にたどり着いた頃を見計らって、電話をくれるなんて……。」
もちろん、理由なんて、なんだっていい。彼からの電話に、理由なんか欲しいとは思わない。
「後朝の歌でもと思って……。」
どっと疲れが出てしまったりする。
「……。」
それでもって、馬鹿な僕は、受話器に向かって、素直にため息をついてしまってたりする。
「きのうあたりから、ちょっとおかしいんじゃないか?」
もちろん、彼の声には、僕のため息に対する非難の色がにじんでいる。
―きっと、男にも生理があるじゃないのかなあ。
「発情期なんだ……。」
僕って、馬鹿だ……。
「何をくだらないこと言ってるんだ。おまえはいつだって発情期じゃないか。」
あー、それはいくらなんだって、ちょっとひどいんじゃないのかなあ。
「駄目だよ、純情な少年の心を傷つけるようなことを言っちゃ……。」
思わず、マジに感情的になっていたりする。
「……。」
でも、賢明な彼は、僕の抗議に対してコメントを避けて沈黙を守ることにしたようだ。
 沈黙の会話で、電気的に彼と接続されていても、実際には、遠く離れているんだ、という考えに耐えられなくて、
「電話してくれて、ありがとう。」
やけに暗かったりする。
「……。」
今回の彼は、絶句している雰囲気。
「どうしたんだよ、黙り込んじゃって……。」
だから、努めて明るく言ってみる。
「いや……、ちょっと……。」
僕が変なことを言うから混乱しちゃったのかなあ。反省している僕に、
「コーヒーをこぼしちゃって……。」
彼は不意打ちを食わせて平気なのだ。電話しながら、コーヒーなんか飲むんじゃない!
「……。」
今度は、僕が絶句してしまう。
「汚点にならないといいけどなあ。」
好きにしてくれ。
「だいじょうぶ?」
すっかりシラケた僕は、それでもけなげに彼を思いやってみせる。
「おまえが変なことを言うからだぞ。」
やっぱり、僕は反省するべきなのかなあ。どっちにしても、僕は、感傷的になりすぎているような気がする。
 たぶん、彼の言うとおり、今日の僕は、どうかしているんだ。なんとか気のきいた言い訳を探さなくちゃ、と思ってみても、
「ごめん……。ちょっと疲れてるのかもしれないけど、きっと、大したことないよ。」
言ってしまってから、思わず、ドキッ、とするような台詞しか思いつかない。こんなダサイ台詞じゃ、心配してくれ、と言ってるようなもんだから、
「本当か?」
彼でなくたって信じてくれない。
「うん……。」
電車の中の憂うつを、自分の部屋まで連れて帰ってしまうなんて、いったい、どうしたっていうんだろう。意外と、本当に発情期で、人肌のぬくもりに飢えてるんだったりして……。
「そんなに心配してくれなくても、大したことないよ。」
やっぱりおかしい。
「ふうん……。」
そして、まずいことに、彼の声が、全然僕の言い訳を信じちゃいない。
 例えば、電話で他愛ない話をしている時なんかに、ちょうど話題がとぎれて沈黙が電話線を支配した場合にそれをどう受け取るか、なんていうのは、立派な心理テストなんじゃないかと思う。沈黙があったことさえ気づかないなんていうのは話の外だとしても、一瞬の沈黙の後に思わず笑ってしまうとか、大あわてで無難な話題を探すとか、平気でため息かなんかついちゃうとか、それぞれ、それなりに思い当たったりする。まあ、思わず笑ってしまうぐらいのところが、きっと、一番いいほうの精神状態なんだろうけど、どうかしている僕は、一瞬の沈黙の後に、馬鹿馬鹿しくも、
「僕のこと、好き……?」
なんて、いっちゃうのだ。しかも、言ってしまってから、言うべきじゃなかったことに気づくんだから、やっぱり僕はかなりおかしい。何かの間違いで彼には僕の声が聞こえなかったことを期待したけど、
「……。」
今度は意識的な沈黙があって、僕は、このまま電話を切ってしまいたくなった。
 いくらおかしい僕でも、さすがにそのまま、ガチャン、と受話器を置くわけにはいかないぐらいはわかっているから、
「冗談だよ、冗談……。」
できるだけ明るい声で、現状の打開を試みるべく、そう言ってみたのだ。もちろん、それがどの程度の打開につながるのかは大いに疑問に思っていたけど……。案の定というか、当然というか、彼は、
「え?!よく聞こえなかった……。」
どうやら、僕がどうかしちゃってる原因(わけ)を究明することに決めたらしい。
「聞こえなかったんだったら、いいんだ。」
しっかり聞こえてるくせに、と思ったけど、とりあえず、友好的な会話をしたかったから、できるだけ、逃げの姿勢を取ることにした。
「……好きだよ。」
―うん、わかった。何て言ってコメントすべきなのかわからないけど、とにかく、彼もわりと平気で、ぐっさり、心をえぐるようなことを言う。
「……。」
彼が真面目に答えてくれるだろうことはわかりきっていたことなのに、いざ彼の言葉を聞くと、やっぱり返す言葉がない。
「あと、5回ぐらい言ってやろうか?」
そうやって、追い討ちをかけなくたっていいだろう?
 ここで、僕が、
『うん。』
なんて言ったりしたら、彼が、少なくともあと5回は、誠意を持って、
『好きだよ。』
を繰り返してくれるのはわかってるから、僕は慎重に言葉を探さざるを得ない。もっとも、あと10回ぐらい繰り返して欲しい気持ちもあったりして……。
「そうじゃなくて、ただ……。」
いったい、僕は、何を言おうとしているんだろう。
「ただ……?」
やっぱり、彼は真剣だ。
「僕って、欲張りなのかなあ。」
こんなふうにして、僕は、いつまでたったとしても、満足できないんだろう。満足しきれないことが僕の動機だ、なんていうことは、ありそうな言い訳だけれども、満ち潮が砂浜を浸すように、満ち足りた想いが新しい水平線を教えてくれることだってあるはずだ。彼との物理的な距離を測るよりも、こうやって、寂しい時に電話をしてくれるという近さにこそ、僕は満足するべきなのだ。
「なんだか、弱気だな。」
僕がいつも弱気なのは知ってるくせに……。彼を相手にして、僕が強気になれたりするはずがない。
 それでも、僕は、ちょっと笑いながら、いくらかの毒を込めて、
「人生に疲れちゃったんだ。」
なんて言ってみせるだけの元気が残っていることが、うれしかった。
「馬鹿……。」
そうだよ、どうせ僕は馬鹿だよ。馬鹿でもいいんだ。
「きっと、僕は、わかってないんだ。」
と言うよりも、わかろうとしていなかったのかなあ。
「何が……?」
電話だと、彼の顔が見えないから、
「だから、僕のことを、好きだ、って言ってくれただろ?」
思わず赤面しちゃうようなことも言ってしまえる。
「でも……、言葉だけじゃいやだ、っていうことか……?」
彼の自信たっぷりの言い方がちょっとくやしいけど、
「まあね……。」
否定するわけにもいかないから、あいまいにうなずいてみせる。
「電話なんかじゃ、駄目か……?」
苦い過去の経験というやつに教えられて、
「そんなことないよ、うれしかった。」
僕は、明確に彼への想いを言葉に込める。本当に、僕がこんなしゃべり方をできるようになったのは、いったい、いつからのことなのだろう。純情だった頃の僕は、自分の気持ちなんて黙っていたって相手に伝わるものだとばっかり信じ込んでいた。本当は弁解人間の僕が、弁解しないことの美徳を確信してたなんて、これこそが人生の皮肉なんだろうなあ。
 例えば、もう話すこともないのに、ただ、受話器を置いて独りになるのがいやだから、ずるずると他愛ない話を引き延ばしてみる。比較的、真剣な話をしているにもかかわらず、僕は、今の自分がもうこれ以上何も話すべきことがないのに気づいて、ちょっと嘲笑ってしまった。
「ありがとう、本当に、もう、いいんだ。」
だから、自分の声が皮肉に響かないように、せいいっぱいの明るさで、そう言ったのだ。
「いい、って……?」
彼の声があまりにも疑わしげで、僕は、すっかりうれしくなって、
「……うふふぅ。」
思わず笑ってしまったりなんかした。
「例えばさ、『いままでいろんな男とつき合ってきたのは、君とつき合うための練習だったようなもんさ』なんて言ってくれると、僕としては、すごくうれしかったんだ。」
彼が、このすてきな冗談を反復してくれるだけの気障っぽさを持ち合わせているとは思えない。
「え、な、なんだって……?」
僕の悪趣味な冗談には、きっと、しどろもどろになってしまうところが、あまりにも彼らしい。
「また、電話してくれるとうれしいな。」
これ以上、くどくど説明しても、彼にわかってもらうのは大変そうだし、うつから回復しつつあるらしい僕は、うつ状態から引きずっているこの電話を、とりあえず終わらせてしまいたかった。
「あ、ああ、わかった。」
ちょっと強引な気はしたけど、彼も、少なくとも、僕がひどい状態から達しつつあることは理解(わか)ったらしく、しぶしぶながら電話を切ることに同意を示しつつあった。
「じゃあ……。」
それでも、僕がこれだけ明るい声で言ってやっているのに、
「あ、うん……。」
彼は、いまだに、混乱したままなのらしい。そういうことには頓着せず、ゆっくりと受話器を置きながら、僕は、そう言えば、例のチーズケーキ以外にまともな晩飯を食っていないことを思い出した。冷蔵庫の中を引っかき回してみれば、きっと、それらしいものをなんとかでっち上げることができるだろう。それに、きっと、晩メシができる頃には、心配しきった彼が、2回目の電話をかけてくるに違いない。
 そうしたら、僕の弱点は『いちご不二家風』のショートケーキ(これは、本当に、駅の近くのケーキ屋さんにあるんだ。)に目がない、っていうことだと教えてやろう。僕は、冷蔵庫の中をのぞき込みながら、くすくす笑っていた。