電話 -電車の中で

火曜日, 5月 31, 1988

 でも、どんなに彼のことを好きだったとしても、好きだからこそ、このため息はどうしようもない気がする。
「ふう……っ。」
彼の部屋から自分の部屋へ帰る電車の中で、僕は、珍しくマジに考え込んでしまったりする。
「……。」
ついでに、苦笑いもしてみたりするけど、そんな演技なんか、きっと、いっしょに電車に乗り合わせている人達の誰も気づいてはくれない。彼といっしょにいる状態から、独りの部屋で独り言をつぶやく状態に移るための遷移エネルギーが、このため息なんだろうか。そのわりには、やけに、ホッ、とした雰囲気を含んでいるのが、我ながら、苦笑いの演技につながってしまうのだ。
 たぶん、本当は、彼じゃなくたっていいのに違いない。それなのに、彼でなくちゃ駄目なような気がしてしまうのは、どうしてだろう。なんていうことを言いながらも、彼のことを思い出すと、思わずほおがゆるんでしまう。
「……。」
苦笑いの次は、ニタニタ笑いなのだから、電車の中にいた人達は、少なからず不気味に思っただろうな。例えば、僕に差し出される腕枕は、それが彼じゃなくったって、同じくらいには心地良いだろうけど、それじゃあ、彼の腕枕の心地良さではいけない理由が何かあるだろうか?ひょっとして、僕が赤い糸で結ばれているのは、彼じゃなくて本当は誰か他の人なのかもしれないけど、今の僕には、彼以外の誰が必要だろうか?
「……。」
だいたい、彼以外の誰のことを思い浮かべて、こんなくすくす笑いが漏れてしまうだろうか?みんな消極的材料だとしても、これだけあれば、彼でなくちゃ駄目な気がすることの言い訳にはなると思う。やっぱり僕は、彼が好きなんだ。
 彼の部屋から帰る電車を、なんということもなしに、小さなため息と他愛ないSF小説か何かでこなせてしまう時もあるけど、こんなふうに、どっぷりと彼への想いに浸かっていなければ耐えられない時もある。何気ない彼の仕草や言葉を思い出してみたりするのは、何の慰めにもなりはしないし、むしろ悪循環でしかないと思う。
―それはそうだけど……。
それでも、電車の速度に比例して、彼の部屋からどんどん遠ざかっているんだ、という事実だけでは寂しすぎる。だいたい、自分の部屋に帰るために別れる時にこんなに寂しいなんて、どこが間違っているというんだろう。
―まあ、いいや。
彼への想いに浸っていれば、それでなんとかなるのなら、それ以上あれこれ考えてみても仕方がない。
 電車のつり革につかまりながら、自分の世界に閉じこもって、例えば、昨日の夜、食事をしている時に、彼がちょっといばって説明をしてくれた酒に関するウンチクだとか、仕方ないなというふうに言ってくれた、
『好きだよ。』
だとかを思い出している。要するに、僕は、いつまでたっても、少女趣味の域を脱出できないんだな、と自分の進歩のなさに感心してしまったりする。自分では多少なりとも大人になったつもりでいても、客観的に見れば、全然成長していないんだから、本当に僕なんか弱点だらけだなあ。でも、それだって、ある意味では、彼のことを思い出しているから、なのかもしれない。もし、彼が彼以外の人なら、僕の弱点だって、もう少し違ったものになっていたとしても不思議ではない。もちろん、結局は同じだった可能性のほうが大きいんだけど……。
―馬鹿馬鹿しい……。
とは思うけれど、こんな馬鹿馬鹿しい想い以外の何者が、今の僕の状態 ―彼の腕枕の中にいないということ― を慰めてくれたりするだろう。
―とにかく……。
どっちにしたって、また、明日はサラリーマンをやらなくちゃいけないんだから、そういう不毛な議論はいい加減にするべきなんじゃないかと思う。
 一応はそんなことも思ってみるくせに、しばらくして気がついたら、
―別に、彼じゃなくたって、いいといえばいいんだよなあ。
なんていうことを考えていたりする。
―要するに、僕のことを、好きだ、と言ってくれて、腕枕をしてくれる人なら、それが彼以外の誰かだったとしても、そう大した違いはないんだろう。
しかも、もっと恐ろしいことには、こんなふうに、電車の中であれこれ思い出している分には、多少空虚しいのを我慢すれば、彼がまったくの想像の産物だってかまいはしないのだ。例えば、正当に思うことのできる相手さえいればいい、という考え方も、まったくのハズレだとは言いきれない。もちろん、多分に強がりのところは、大ありなんだけど……。それでも、誰かとつき合っている、という状態は、精神衛生上、非常に好ましいことではある。単純な僕にとって、自分の想いが完全な一方通行ではない、と思えることだけでも、しばらくは、ニタア、としていられるようなことなのだ。
 そんなとりとめもない妄想に耽りながらも、電車を乗り過ごすこともなく、自分の降りるべき駅でちゃんと降りるのは、……まあ、あたりまえなのかなあ。
―おいしそうなチーズケーキだなあ。
それでも、いつもは、我慢してしまうことの多いドイツ風チーズケーキだかなんだかを、駅の近くのケーキ屋さんで買い込んでしまうところは、やっぱり、それなりなのに違いない。甘いもので自分を誤魔化そうなんて、我ながら、立派なもんだ。
―さっさと風呂に入って、本でも読みながら食うことにしよう。
風呂上がりにケーキ、というのも、やや問題があるような気はするんだけど、ようやって独りの部屋に帰るための心の準備をしているんだとしたら、なかなか、けなげな少年の態度なんじゃないだろうか?