とりあえず、一口、グラスを傾けて改めてトリスタンのマスターに目をやると、僕は思わずちょっと笑ってしまった。
「何笑ってるのよ。」
すると、マスターは、斜めに僕をにらみながら、僕の方にあごをしゃくってみせる。
「このあいだ、友だちと話してて、マスターの話になって……。」
僕がそう言いかけると、
「あら、どうせ、また、アタシの悪口言ってたんでしょう?食えないババァとか、なんとか。」
さっそく話の主導権を持っていかれてしまった。
「まあ、当たらずとも、っていう感じだけど……。」
すると、マスターは、カウンターの中を僕の正面まで移動して、
「おあいにくさま、たまには食われてるのよ、あんたなんかの知らないところでね。」
ちょっとしかめっ面をしてみせる。
「へー、マスターを食うなんて、よっぽどの物好きか、それとも、蛇ににらまれた蛙、って感じなのかな……。」
そんな僕の嫌味なんか、へ、とも感じてないくせに、
「まぁ、失礼ね、乙女に向かってそんなことを言うなんて、失礼すぎるから一杯いただくわ。」
ちゃんと商売に結びつけてしまうところが『食えない』所以なのか、なんなのか。
「それで、トリスタンのマスターは、悪い意味じゃないんだけど、古いタイプのマスターだよね、っていう話になって。」
彼曰く、トリスタンのマスターみたいに、ああ言えばこう言う状態で話を返してくれたり、真面目な話にもちゃんと相談に乗ってくれたりするようなマスターは、もう絶滅寸前だと思うな、とのことで、
「その話を思い出して、ちょっと笑ってしまったんだけど……。」
僕がそういうと、マスターは、手際よく作った自分の分のグラスを僕のグラスに、かちん、と当てながら、
「ひどいわねー、人のことを生きた化石みたいな言い方して……。」
ぐい、とグラスをあおってみせたりする。そこまで言ってないけどね、さすがに僕も彼も。
そんなアペリティフのような会話が終わると、
「で、今日はどうしたの?」
ちょっと真顔になってマスターが、僕の顔をまじまじと見た。
「え?」
ちょっと、どき、として視線が泳いでしまっている僕に、
「どうせ、また、痴話げんかでしょ。」
ほとんど鼻であしらってる風情のマスターの発言。
「だって……。」
思わず自己防衛の発言に走ってしまう僕。
「ほんと、何にも聞かなくても、だいたい想像できてしまうところが、あんたも進歩がないわねー。」
もちろん進歩のない僕は、マスターのその言葉に、相変わらず、ぐっさり、胸をえぐられてしまう、というよりも、すでに、反省モードに入ってたりして……。
「やっぱり、僕が悪いんだよね……。」
あっさりグラスを飲み干してしまったマスターは、僕のボトルからまた酒を自分のグラスに注ぎながら、
「まあ、その様子じゃ、あんたが悪いみたいね。」
やっぱり、鼻であしらわれているご様子。
「ていうか、どっちが悪くたって、そんなこと別にいいじゃない。」
手にしたグラスを、もう一度僕のグラスに、カチン、と触れさせながら、ちょっとにっこりしてくれた。
「……。」
マスターの言ってることは、なんとなくわかるけど……。
「理由が欲しければ、アタシがいくらでも考えてあげる。」
一体どんな理由を考えてくれるのか、そのこと自体に興味はあったけど、
「だって、あんた、彼のことが好きなんでしょ?」
まあ、そのくらいのところだよね、マスターが考えてくれる理由なんか。そのくらいの理由なら、僕にだって思いつくことはできる。でも、そのきっぱりとした物言いは、僕の心を後押ししてくれるには十分だった。そして、図ったように携帯がメールの着信を告げていて、こんなタイミングで僕にメールを寄こすのは、やっぱり彼だった。
『早く終わりそうだから、遅い夜食が嫌じゃなかったら、トリスタンで待っててくれないか?』
僕が、黙って、そのメールをマスターに見せると、マスターは、
「じゃ、アタシがメールしといてあげる。『早く来てくれないと、引き留められなくなりそうよ』って。」
いたずらっぽい目つきで僕に言った。
「だめだよ、変なことメールしちゃ。」
僕は、あわてて、マスターを押しとどめると、自分で彼にメールした。
『了解』
素っ気ない返信の意味を推し量って、少しぐらいやきもきしてもらってもいいよな、と思いながら。