そこは、ずいぶん久しぶりの店だったけれども、やあ、と言ってくれる人もいて、何となく心なごむ思いがした。奴との1時間遅れの待ち合わせに、いつもと同じ時間に職場を出たら、時間を持て余してしまうのはわかっていたのに、それでもいつもと同じ時間に職場を出てしまった。
「こんなに時間があったんじゃ、しょうがないな。」
晩飯でもゆっくり食えばいいんだろうけど、一人で晩飯を食うのは嫌いなので、部屋で食う以外は、いつも、いかがわしいもので誤魔化してしまったりする。だから、よけいに時間が余ってしまう。それで、奴との待ち合わせまでに時間があることなんか、単なる言い訳に過ぎないことぐらい、自分がいちばんよくわかっていたけど、俺は、狭い路地の突き当たりにあるこの店のドアを開けていた。
「いらっしゃい。」
マスターの普段はあんまり表情を見せない目が、おや、というように俺を見つめた。
「……。」
久しぶりとも、なんとも言わずに、
「何にする?」
カウンターに落ちついた俺に、マスターはおしぼりを渡してくれた。
「ジン、……のソーダ割り。」
ちょっと間の抜けた俺の台詞に、マスターは、かすかに微笑んで、
「……。」
黙ったままうなずいた。ジンが好きな奴は、基本的に飲んべえだ、と、誰かに言われたことがある。でも、学生じゃなくなってしまった頃から、調子に乗ってジンなんかをストレートで飲んだりすると、次の日にてきめんに二日酔いになってしまうようになった。それなのに、まだ、若いつもりでジンロックなんかを頼もうとするなんて、俺もどうかしている。

 俺は、昨日の自分を俺自身の中に見つけたような気がして、なんだか恥ずかしくて赤面してしまった。俺が、そうやってしばらくの間、変な感傷にひたっていると、
「やあ、久しぶりだね。」
俺の隣りに座っていた人が、カウンターにひじをついて俺の顔をのぞき込んだ。
「あ……。」
何年ぶりだろう、この人に会うのは……。
「相変らずジンなんか飲んでるのか……。」
彼の、『やあ』で心なごむなんて、なんとなくわざとらしい気もするけど、うれしいものはうれしいんだからしょうがない。

 あのころの僕は、若すぎて……。と歌った歌手がいて、俺は、結構その歌を気に入っていた。俺がジンをすするのを見ながら、
「珍しいじゃないか。」
彼の言った『珍しい』という言葉が、あまりにたくさんの意味を含んでいるような気がして、俺は、なんと返事をすればいいのかわからなかった。それは、俺がこの店にくるのが久しぶりだ、という意味のようでもあり、俺が彼の横に座ったことを面白がっているようでもあり、その言葉を俺がどう解釈するかを試しているようでもあった。俺は、しばらくためらってから、
「うん……。」
あいまいにうなずくことで、誤魔化してしまった。きっと、この店で彼に出会うだろうことを予想していながら、本当に彼に出会ったことで、なんだか初心な少年のようにどぎまぎしていた。それとも、彼に出会うことを期待して、この店に来たことをちゃんと告白すべきだろうか?

 俺は、そんな自分の気持ちを彼に悟られたくなくて、
「ホワイトピッピが閉めちゃったんだ。」
脈絡のない話題を探したけれども、きっと、彼には、俺が動揺しているのがわかってしまったに違いない。
「そうみたいだね。」
水割りのグラスを手にちょっと微笑っている彼から、思わず目をそらせてしまう。
「どうして居心地のいい店は、みんな閉めちゃうんだろう。」
俺が、ちょっとため息をついてみせると、
「それだと、ここが居心地がよくないみたいに聞こえるぞ……。」
彼は、ちょっと意地の悪い言い方をする。
「そうだよ。」
俺はできるだけすまして返事をしたが、彼はすっかりよろこんじゃって、
「……なるほど。」
笑いころげてる。俺はと言えば、もう一口ジンをすすって笑いをこらえながら、彼と初めてあった頃は、きっと、『かわいげのないことを言ってみせても、それなりにかわいかった頃』だったんだろうな、なんていう思いにとらわれていた。実際、今じゃ、かわいげのあることを言ってみせても、ただそれだけでしかない。

 お気に入りの飲み屋でカウンターにもたれて飲むジンのように、俺の思い出は、きっとそこに返っていく。つまり、『あのころの僕は、若すぎて……。』というフレーズに。
「今、いくつになった?」
わかっているくせに、彼はそんなことを聞く。
「自分の年齢を考えればわかるだろ。」
俺の憎まれ口には直接答えずに、
「初めて会ってから、もう、7年ぐらいになるんだなあ。」
と、いうことは、あの頃のこの人が今の俺なんだ。俺は、改めて自分の年齢を納得してしまう。同時に、今の自分が、あの頃のこの人だったんだ、と思うと、なんだか不思議な気持ちがした。

 彼は、まじまじと俺を見つめた後で、ちょっとうれしそうに、
「おまえは、全然変わらないな。」
そう言ってくれたけど、彼にそんなことを言われるのは、なんとなくもの悲しい。
「そうかな……。」
実際、二人ともちっとも変わったようには思えないのに、ここにいる二人は『あの頃』のままじゃないんだと思うと、ため息をついてしまいそうになる。素直にため息をついてしまうのは、なんとなく気が引けたから、
「でも、あの頃は俺も純情だったから、よく泣かされたな。」
冗談に紛らせてみる。決して、思い出にひたるために酒をのんでいるわけじゃないけど、ほんのちょっとだけ立ち止まって、昨日のことを懐かしんでみるのは、人生を流されていく人の特権じゃないだろうか?
「そうだったっけ?」
彼は、笑いながら、バーボンだかなんだかの水割りをすすった。

 いまさら、ガキのふりもできないけれども、でも、いつまでたっても俺のことをガキにしか見てくれない。きっと、俺にとっての彼が、あのときのままに思えるように、彼にとっての俺は、相変わらずのわがまま坊やに違いない。
「そうだよ。あの頃の俺は、純情だったんだから……。」
もちろん、それはそれで心地よくて、どうしてこんなに心地よい状態を放棄してしまったんだろう、なんて、少なからず考え込んでしまったりする。
「そうか……。」
それでも、ちょっと寂しそうに微笑っている彼が、なんとなく以前ほど自分より大きい人のようには思えなかった。だとしたら、俺も少しはガキの状態を脱したということだろうか?
「あんなに大きい人だったのに……。」
きっと、彼にできるかぎりに、俺のことを大きく包んでくれていたに違いないのに……。それでも駄目だったのは、結局、俺がわがまま過ぎたんだろうな。

 まるで、夢見心地の俺は、彼の目の中にあの頃の俺を見つけようとしていた。
「どうした?」
彼の相変わらずの優しい問いかけが、俺の気持ちをちょっと暗くする。
「ううん、何でもない。」
俺は、きっとわがままを言い続けて、こんなところに来てしまった。今から思えば、わがままを言って彼を困惑させることが、甘えて彼を拘束することが、自分に対する愛情のかけらを相手の心から奪っているんだということに、なぜ気づかなかったのだろう。一度使ってしまった呪文は、すっかりあたりまえのものになってしまうというのに。俺は、どうしても、彼の愛情の暖かさを感じているだけでは我慢できなかった。
「俺も、きっと若かったんだな。」
懐かしく、あの頃のことを思い出している自分に、思わず赤面してしまう。
「酔ってるんじゃないか?顔が赤いぞ。」
彼に見透かされているような気がして、
「そ、そうかなあ……。」
よけい顔がほてってしまう。