僕が、自分で自分のことを、かわいい、なんて思ってしまうのは、こういう時に、結局、ふて寝、と称してベッドに潜り込んでしまったりするからだ。部屋に帰ってくるときは、たいてい、駅前の本屋さんにふらふらと誘惑されて、わけのわからない本を数冊買い込んでしまうか、それでなくても、暇つぶしの種に雑誌を買ってしまうのが常なのに、さすがに、今日は、マンガを読む学生でにぎわう本屋へ立ち寄る気にはなれなかった。
―あんまり腹も減ってないしなぁ。
自分だけだと、つい、億劫になってしまって、朝食と昼食を兼用で、しかも、おやつの時間に食ったりするものだから、夕方になっても、あんまり腹が減ってなかったりするのだ。そんなこんなで、珍しく、駅からまっすぐ自分の部屋まで帰ってきてしまったりした。
―ただいま……。
もちろん誰も待ってる人はいなかったけど、誰もいない、ということにかえってホッとしたりした。
 こんなことを考えるのは、全く子供じみてているという気もするけど、自分の部屋には、部屋の妖精みたいなものがいて、僕が部屋に帰ってくるのを待っていてくれるんじゃないだろうか、と思うのだ。むしろ妖精というよりも、部屋の雰囲気そのものに人格があるような気がする、という感じかも知れないけど…。それで、いつになく、自分の部屋に帰ってホッとしたりしたので、
―今日は、部屋の機嫌がいいのかな。
などと思ったりしたのだ。
―ふうっ……。
せめて、お茶でも飲もう、と湯を沸かしながら、自分の体臭の残る部屋に慰めてもらうんじゃ、大したことはないな、と僕は苦笑していた。
―当分の間、電話も鳴らないんだろうな。
何だか、かえって安心したような気持ちで、僕は、お茶をすすっていた。
―ヤケ酒でも飲みに行くかな。
夜はまだまだ、始まったばかりだった。
 でも、結局、僕は、服を着たままベッドにもぐりこんで、毛布だかなんだかをかぶって眠ったふりをしてしまうのだ。結局、なるようになった、ということなのだろう。
―いろいろ考えてみたところで、どうにかなるわけでもないんだから……。
まさか、目が覚めれば、現実が変わっているなんていうことを期待しているわけじゃないけど、不可抗力的な事態からなら、睡眠という緊急避難も許されるんじゃないだろうか。
―あーもう、どうでもいい。
どうしても、いろいろなことを考えてしまいそうになるので、僕は、うー、とか何とかうなって、布団を抱え込むようにして、うつぶせになった。だいたい、いつもは、布団の中にもぐってしまうと、時間帯にかかわりなく、5分か10分ぐらいで眠ってしまう体質なのに、やたらといろんなことが頭の中に浮かんできて、睡眠の邪魔をするのだ。
 僕は、ため息をついてみた。ここしばらくは、彼の笑顔を思い出す度に、ため息をつかなくちゃならないんだろう。
―100回ため息をつけば、彼のことが昔の話になってしまうんなら、何回でもため息をつくのになぁ……。
それでも、もちろん思い出としては残ってしまうんだろうけど。
―でも……。
彼との時間ゲームを思い出すような時がくるなんて、考えてもみなかった。彼の優しい笑顔を思い浮かべることが重荷になるような時がくるなんて……。
―まぁ、そういうことも、やむを得ないんじゃないですか?
確かにそれはその通りだけれど……。
―そもそも、彼の笑顔や言葉なんか、全然、信じてもいなかったくせに……。
そんなものいつまでも続くとは思っていなかったし、現に、このザマだけど、ぬくぬくと彼の暖かさに包まれている間は、こんなザマになるとは思いもよらなかった。少なくとも、電話をかければ、多少の機嫌の差はあっても、僕は、彼の声を触媒に、優しい気持ちになれたのだから。
―残念だったね。
失恋しちゃったかわいそうな少年の心なんか、孤独な眠りの他には慰めてくれる奴はいないのだ。
 初めて、彼の部屋で、彼のがっしりした腕に包まれた時から、僕は、彼の暖かさに夢中になっていたような気がする。
―布団が一つしかないんだ。
何だか、すまなさそうに言いながら、彼は布団を敷いてみせた。彼が布団を敷いている間、僕は、まさか物欲しそうな顔をして横で見ているわけにもいかないから、出来るだけ邪魔にならないように、部屋の壁を一面、占領している本棚の前に立って、かなりぎっしり並べられた本の背表紙を見ていた。
―何を見てるんだよ。
シ ―ツをピンと引っ張って伸ばしていた彼はちょっとおどけたふうに、僕の背中に声を掛けた。
―結構、たくさん本があるんだなぁ、と思って……。
どちらかというと、マンガでも山積みになっていてくれた方が、僕はホッとしたんだろうけど、
―そんなもの、飾りだよ。
飾りで本を買う彼は、僕の言葉を全然、違う意味に解釈したらしかった。
 それでも、心優しい彼は、自分だけさっさと服を脱いじゃって、
―もう寝るけれども、もし、興味がある本があるんだったら、引っ張り出して読めよ。
パジャマに着替えてしまった。
―眠くなったら、これに着替えて……。
彼は、ちょっと言葉を切って、さすがに照れ臭そうに、
―布団にもぐり込めよ。
ひょっとしたら赤面しながら、そう付け加えた。
―ううん、僕ももう寝るよ。
僕が、彼の出してくれたパジャマに着替えようと、シャツのボタンを外しかけると、
―そ、それじゃぁ、お休み。
彼は、慌てて寝返りを打つと、着替えている僕に背を向けてしまった。僕は、脱いでしまった服を適当に畳んで、素肌の上にパジャマを着ながら、
―……。
ひょっとしたら、彼は、僕を自分の部屋に連れ込んだ、という事態の意味がわかっていないんじゃないだろうか、と思わず苦笑してしまった。
気を取り直して、僕が、健気に、布団にごそごそもぐり込んでいくと、やっと彼が僕の方に寝返りを打った。
―もっとこっちへ来ないと、布団からはみ出しちゃうぞ。
でも、これ以上、彼の方へ行ったら、彼に抱かれるような形になってしまう。
―……。
結局、僕は、彼に引き寄せられるようにして、彼の胸に顔を埋めた。
―暖かい……。
彼は返事のかわりに、僕の体を、ぎゅっ、と抱き寄せてくれた。
―……このまま眠るか?
彼は、そんなことを言って、僕を淫乱にしようとするのだ。僕のお腹に当たる堅くなったものが、彼の言葉を裏切っていたけれども、
―……。
そして、彼の手が伸びてくる先で堅くなったものが、僕の沈黙を裏切っていたけれども、僕は、本当に、そのまま眠ってしまったって、きっと嬉しかったに違いない。
 彼の唇の暖かさが、僕の唇に触れて、しばらくの悪戯の後でゆっくり離れてゆく。彼の掌の暖かさが、僕の脇腹に触れて、神経がさざめいてしまうくらい撫で上げた後ですっと離れてゆく。彼の舌の暖かさが、僕の首筋に触れて、身震いしてしまうような感触を教えた後で、優しく離れてゆく。男に愛撫されることなんか、初めてにはほど遠いぐらい、すでに経験があるのに、彼に触られることは何だか新鮮で、直接に感情に響いてくるような錯覚を感じてしまった。
―あ……っ。
吐息のつもりで口を開いたはずなのに、つい声になってしまう。
―……。
彼がちょっと微笑ったような感じがして、僕はまた、彼の暖かい腕の中に、ぎゅうっ、と抱き締められた。その暖かさが気持ち良くて、また声が出そうになるのを、さすがに今度は我慢したのだ。
 それなのに、僕は、そんなことを思い出しながら、自分のベッドの上で孤独の布団にくるまっているなんて……。
―ふん……っ。
みんな、昔のことなんだ、と嘲笑ってみせる僕には、その時のほんのかけらの暖かささえ残っていない。
―僕、心が寒いんだ。
眠りにつく前の、彼の暖かさが欲しくて、僕は、彼からの電話を待ち続けていたのかも知れない。恋愛なんかじゃない、つき合ってるわけじゃない、と自分に言い聞かせてきたけれど、それが嘘だなんてことぐらい、とっくに気がついていた。
―いいんだ。どうせ、遊びだったんだから。
でも、そういう意味からすれば、遊びじゃない時なんて、あるはずもないのに……。いつの間にやら、彼の暖かさなしでは、眠れなくなってしまっていたなんて。
―それは、あんまりだよ。
仕方なく、僕は、自分の腕枕に顔をうずめて、眠りの中に漂い込んだのだ。