戯れにお湯をぱちゃぱちゃやっていた手を止めて、僕は耳をすました。どうやら電話が鳴っているらしい。それにしても、風呂に入っているときにかかってくる電話というのは、たいていの場合間違い電話であるらしくって、このあいだも、
「あ、すみません、間違いました。」
があった。しかし、そうは言っても、電話に出ないと一方的に留守にされてしまうから、もし将弘からの電話だとしたら、後で面倒なことになる。だって、電話がかかってきたときに、たまたま僕がちょっと買い物に行ってただけだったとしても、次に会ったときとかになんだかんだとうるさいのだ。もちろん、完全に潔白だとは言い切れない場合もあるにはあるけど、今日は、後々のために電話に出ておこう。ザバッと湯から出ると、
「ホイ、ホイ、ホイ。」
の三拍子でいい加減に体を拭いて、裸のままというのもまずいから体を拭いたバスタオルを腰に巻き、がなり立てている電話のところへ飛んで行った。
「もしもし……。」
「もしもし、俺……。」
出といてよかった。やっぱり将弘だったみたいだ。
「何か用?」
風呂にいい気持ちでつかってるところを邪魔されたんだから、このぐらい言ってやる権利はあると思う。
「今夜、ちょっと用ができちゃって、そっちに行けないから……。」
「……?」
別に、僕のところに来てくれなくてもいいのに。それに、そもそも今日来るなんて言ってなかったじゃないか。
「珍しい友達に会って、いっしょに飲みに行くから、それで電話したんだ。」
なんだかろれつの回りかねてるらしい将弘の声。なるほど、浮気してるのか、今……。
僕は、一人納得しながら尋ねた。
「今、どこから?」
「いつもの裏通りの公衆電話。」
と言っている将弘の声のBGMはどうやらトリスタンのマスターの声らしい。
「マスターとかわってくれる?」
将弘が素直にかわったとは思えないけど、マスターが電話に出た。たぶん、マスターが将弘から受話器を取り上げたんだろう。
「知ちゃんのところに電話するなんて思ってなかったものだから……。」
なんだかすまなさそうにマスターは言った。
「酔ってるの、将弘?」
「そうみたい……。うちに来たときには、もうこんな感じで。」
胃が痛むなんて言ってるくせに、ろれつが回りかねるほど飲んだりして、本当に飲んべぇなんだから、とは思ったけど、マスターに言っても仕方ないから思うだけにした。
「誰か、介抱してくれる人はいるんだよね?」
いるのはわかってるんだけど、いなくたって、この際、僕の知ったことじゃない。
「……ええ。」
ちょっとためらってマスターは答えた。
「僕の知ってる人?」
「ううん、うちにも初めてのお客さんよ。」
へえ、将弘にひっかかる馬鹿は、僕だけじゃないんだなあ、と思うとちょっとおかしかった。
「ごめんね、マスター、迷惑かけて。」
「いいのよ、いつものことだから……。」
マスターったら、いつも一言多いんだから……。結構人の傷つくことをわりと平気で言う人なのだ。
「じゃあ、将弘に、二、三日絶交だ、って言っといてくれる?」
「わかったわ。……あ、マーちゃんがもう一回かわってくれって言ってるわよ。」
話をしてやってもいいけど、何しろ僕は裸なんだし、湯冷めして風邪でも引いたら困るから、
「いいんだよ、放っておけば……。」
と言って、
「じゃ、マスター、がんばって。」
かなり一方的に電話を切ってしまった。
僕は、わりと風呂が好きで、たぶん長風呂のうちにはいると自分でも思っている。でも、これは、もうだいぶ前のことだけど、僕が30分ほど風呂の入っていたら、将弘が心配そうな顔をして、
「だいじょうぶか?」
なんて、風呂をのぞきに来たのにはびっくりしてしまった。実を言うと、ちょっとぬるめの湯だったものだから、ずっと湯舟につかっていて、まだ体も洗ってなかったんだけど、何となく恥ずかしくて、
「今、出るとこだよ。」
なんて言ったんだけど、たったの30分っていうのは、心配してのぞきに来るほどの長風呂なのかなあ。もっとも、本当に風呂から上がったときには、一時間近く経っていたけど……。それと、将弘が来てるときは、気をつけてないと、脱いである服はおろか、そこらへんのタオル類をごっそり隠してしまわれることがある。見られても平気な人は平気なんだろうけど、僕はどちらかというと恥ずかしがりだから、裸のままうろたえて服を探してるのをニヤニヤ笑ってみてたりする将弘は、本当に許せない、んだけど、でも、いつの間にか許しちゃってる自分がちょっと情けない。今日は、その将弘も来てないし、平和に風呂に入れると思っていたのに、たかが浮気していることぐらいで電話してきたりしやがって……。僕は不機嫌さを持て余しながら、もう一回湯舟に、どぶん、と首までつかった。
「本当にわざとらしいんだから……。」
浮気なんて相手にわからないから浮気なのに、それをわざわざ、しかもトリスタンから電話してくるなんて……。
「いったいどういうつもりなんだろう……。」
わかるような気はする。人一倍スケベで、浮気っぽくて、そして、ついでに優しい将弘のことだから……。