この気配はきっと課長かな、とは思ったけど、とりあえずは報告書を仕上げる方が優先状態だった俺は、知らんぷりしてキーボードを叩き続けている。
「栗坂くん……。」
もちろん、課長はそんな俺のはかない抵抗なんかものともせずに、俺の肩を、ぽん、と叩いた。そこまでされちゃしょうがないので、俺がしぶしぶ椅子ごと振り返ると、愛想笑いを浮かべた課長の顔があった。
「なんすか?」
どうせろくな話じゃないんだろう、とは思ったけど、俺もサラリーマンだから、にっこり微笑んで返事ができてれば立派だけど、相変わらず課長には無愛想な俺。
「今年は新人が配属されるんだ。」
でも、俺が無愛想だったくらいで何かを感じることはないらしく、課長はマイペースで言葉を続ける。
「新人?」
逆にその意外な言葉に俺の方がペースを乱されていたりする。もう一度、課長はにっこり笑って、
「これで、やっと君も宴会幹事を卒業だな。」
俺の機嫌を取るようなことを言った。別に、宴会の幹事くらい、俺は苦にしてるわけじゃないんだけど、
「はあ。」
あんまりヘタな返事はしないほうがよさそうだったので、俺もそう言ってごまかす。
「それで、その新人の世話を君に任せたいんだ。」
俺に任せるって、それはいったいどういうこと?
「へ?」
それよりも、もっと俺が驚いたのは、課長が、どうやら、コンセプトとかポリシーとかそういうものはなんにも示すことなく、新人の世話を俺に丸投げしようと考えてるようだったからだ。
「あの……。」
俺が途方に暮れているのを尻目に、課長は、
「じゃ、後はよろしく頼むな。」
とのたまって、さっさと別のやつのところへ話に行ってしまった。
『新人?俺が、世話するの?』
俺は仕事にもどろうとしたが、いったい何をどうすればいいのかわからなくて、はてなマークだけが俺の頭の中で空転していた。そんなだから、結局俺は朝予定していた仕事はほとんどできなくて、空転状態のまま昼飯を食うことになったのだ。
それで、まだ、俺がなんの展望も見いださないうちに、
「あの、栗坂さんですか?」
俺に呼びかけるやつがいた。
「今日から配属された矢上です。」
え?もう配属されちゃったの?って、どうして、君一人?
「今日は、課長さんは午後からご出張とのことだったので、栗坂さんのところに行け、と言われたので。」
な、なに?出張?確かに課長の席はもぬけの殻。それより、いったい、俺はこいつに何を教えればいいわけ?
「ふっふっふ。」
出張中の飛行機だか新幹線の中だかで、密かにほくそ笑んでいるに違いない課長の顔が目に浮かぶようで、パニックに陥った俺のことを、矢上くんは、かなり不安そうに見つめていた。
「あ、ご、ごめん、と、とりあえず、みんなに紹介するね。」
俺が、矢上くんを紹介して歩くと、
「はめられたんだろう、栗坂。」
なる声があって、ひょっとして、こいつら、課長とぐるだったのか?でも、不思議と俺は、怒る気にはなれなくて、それは、あきらかに、この矢上くんがめちゃかわいいからだよな。
で、すごく間抜けなのは、とりあえず、こいつに何をさせておけばいいのかわからないので、大急ぎで会議室を予約すると、そこに矢上くんを引きずり込んで、なんとか午後をつぶすことにした。
『課長って、ほんとにとぼけたやつなんだから……。』
俺は、内心、かなり怒ってたんだけど、俺が何にも聞いてなかったとか言ったら、矢上くんが傷つくんじゃないかと思ったので、俺は表面上にこやかに彼にいろいろ尋ねて午後をつぶすことにした。
「まあ、一応企画ってことにはなってるけど、どっちかっていうと営業と開発の間で、何でも屋っていう感じかな、俺たちは。」
矢上くんは、さすがに俺の言うことを神妙な顔つきで聞いてるんだけど、俺は、さっきから、矢上くんのことが気になって仕方がない。
『けど、俺に任されたってことは、こいつを俺が好きにしていい、っていうことなんだよな。』
っていうことは、スーツを着たままエッチなことをしたりすると、なんだか、スーツ専のビデオにでも出てきそうな構図だな。で、あげくの果てには、会議室の中で押し倒して、あんなこととかこんなこととか……。一瞬の間にそこまで想像してしまった自分に、我ながらちょっと反省。
「すみません、上着脱いでもいいですか?」
俺が、内心舌なめずりしてることに気がついてくれたのか、矢上くんはそうやって俺の妄想に協力してくれたりする。
「ああ、リラックスしていいから、って、まあ、初日からそんなにリラックスもできないかな。」
確かに、会議室は初夏の陽射しが射し込んできて、まだ冷房のかかっていない状態ではかなり暑かった。鼻の頭にうっすらと汗をかいた矢上くんがスーツの上着を脱ぐと、俺は、それだけでどきどきしてしまったりした。でも、そんな俺の視線に気づいているのかいないのか、矢上くんは、時々俺と目が合うと、ほんのちょっとはにかむように微笑んで、少しうつむいて俺の視線を避けるのだった。
『かわいいな。』
その仕草が、たまらなくかわいく見えた。
「まあ、あんまりあてにならない先輩だけど、わからないことがあったら何でも言ってくれ。」
他愛ない話をしながら、俺には、矢上くんが何となく近くなったような気がした。彼が俺との距離をどんなふうに感じているかはわからないけど、俺にとって、矢上くんは、すでに、少なくとも明日からのかわいい後輩だった。