彼のことは、結構以前からトリスタンで見ていて、最初に見たときから、僕にはそれなりの思いがあった。
『なんか、すごく、いい人だな。』
でも、残念ながら、トリスタンでは滅多に会えなくて、たまに会ったときの、
「やあ。」
僕に笑いかけてくれる彼の笑顔が、僕の唯一の思い出だった。
「彼って、いつ来るのかなあ……。」
勇気を出してマスターに尋ねてみたりもしたんだけど、さすがのマスターも、
「さあ、平日の、遅い時間に来ることが多いかしら……。」
彼の行動パターンはつかんでないようで、本当のことを言うと、最近の僕は、半分くらいは彼に会いたくてトリスタンに行ってたりしたのだ。僕にとって彼は、いつ会えるのかもわからない、謎の人、だった。それが、こんなふうに彼と待ち合わせをするようになって、どうして彼と会えなかったのか、だんだんわかってきた。結局のところ、彼は、あんまり飲みに出てきてなかったという、当たり前といえば当たり前のことだったりする。なんていうか、彼は、いまだにこんな会社人間がいるんだなあ、と感心するぐらい残業をこなしていて、結果として、トリスタンにもそれ以外の店にも、ほとんど出てなかったのだ。もし出たとしても、すごく遅い時間が多くて、早い時間に顔を出している僕とは、すれ違いになっていたらしい。だから、あの日、彼と会ったのは、僕にしてみれば、きっと、すごくラッキーだったということなんだろう。
そして、彼との待ち合わせと言えば、正確な時間を指定して待ち合わせをすることはほとんどなくて、
「うーん、きっと11時くらいにはいけると思う。」
なんていう約束がしょっちゅうだったりする。そのうえ、だいたい30分は遅れてくるのが普通で、あんまり待ち合わせの意味がないなあ、とか思ってしまう。でも、トリスタンに現れる彼は、いつも、がんばって仕事を終わらせてきてくれているらしい雰囲気が濃厚で、まあ、しょうがないんだろうなあ。それにしても、どうしてこんなに仕事が好きなんだろう。ということで、あんまりあてにならない時間を気にしながら、僕はトリスタンのカウンターに座っていたりする。
「今日も待ち合わせ?」
マスターが、薄目のジンソーダを作ってくれながら、僕のことを、ちら、と見た。
「うん。」
そういえば、最近、めっきりトリスタンで座っている時間が増えた気がする。
「こんなにつまんない店なのに……。」
でも、待ち合わせだから、我慢していなくちゃ仕方ないなあ……。
「なにを、ふつぶつ言ってるのよ。」
まったく、悪口だけは、ちゃんと聞いてるんだから……。
でも、ドアが開いて、彼が駆け込んでくると僕の不機嫌もすぐに直ってしまう。
「ごめん、ごめん、遅くなっちゃって……。」
僕がうれしいのは、いつも彼が、僕の顔を見るとうれしそうな顔になってくれることだ。彼は大汗をかいていて、きっと駅から駆けてきてくれたんだろうなあ、と思うと、彼の思いやりという腕にぎゅうっと抱き締められているみたいで、なんだか切ない気持ちになる。
「ううん、それより、仕事だいじょうぶだった?」
とりあえずのビールを飲み干すと、彼は、
「うん、捨て置いてきちゃった。」
と、こともなげに言った。
「捨て置いてきた、って……?」
僕がそうつぶやいても、彼は、きっと、聞こえないふりをする。そう言えば、今日約束をするときに、彼はいつも以上に口ごもっていたなあ。ま、僕がいろいろ考えてもしょうがないから、彼に会えたことを素直に喜んでいることにしよう。
「明日は休みだろ?」
彼は、僕の目をのぞき込むようにしながらそう言った。
「うん。」
そりゃ、僕は、普通のサラリーマンだからね。って、でも、そういう質問をする、っていうことは、どういうことだろう。
「明日も仕事?」
僕が心配そうに言うと、彼は、
「明日は休みにした。あさっては仕事に行くけど……。」
と、ちょっとにっこりした。
「そうか、休みか……。」
僕は、彼が一日でもちゃんと休むことがうれしかったんだけど、きっと彼は僕の台詞を誤解したらしくって、
「そうだよ、休みだよ。……だから、今日は、俺の部屋に泊まっていけよ。」
と、後半は僕の耳元でささやいた。彼の息を耳たぶに感じて、僕の体が、思わず、びくっ、と反応してしまったけど、僕は、できるだけ知らんぷりで、
「うん。」
とうなずいてみせた。きっと、少なからず無理をして、明日を休みにしてくれたんだろうなあ。でも、僕にとって、本当に価値があるのは、僕を見る彼のうれしそうな顔なんだ、っていうことに彼は気づいているんだろうか。
なんだか、そそくさ、という感じでトリスタンを後にすると、彼は僕を自分の部屋に連れ込んだ。
「なんだよ、いつまでも『連れ込む』とかって、人聞きの悪い言い方をするなよ。」
彼は、ちょっと苦笑しながら、僕にキスをした。
「だって、『滅多に連れ込まない』人に、こんなに頻繁に連れ込んでもらってるんだから、すごく光栄だな、と思って……。」
すると、彼は、
「こいつ……!」
そのまま、僕をベッドに押し倒した。
「……。」
彼の体重で、ベッドに押しつぶされているときの僕には、彼のこと以外、何も考えられない。
「そういう、生意気なことばっかりいうやつは、お仕置きだ。」
彼のキスは、僕の全身にしみ透っていく。やっぱり、彼と会えてよかった。彼の腕の中で、頭を撫でられていると、僕は、すごく素直になれる。眠る前のこの時間に、彼の腕の中で過ごせるのはすごくうれしい。だから、会いたくって、いつもわがままを言ってしまう。彼は、いったい、こんな僕のどこがいいんだろう。
「僕って、いつもわがままなのに、どうしてこんなに言うことを聞いてくれるの?」
僕は、彼の胸の鼓動を聞きながら、そう言った。
「俺が聞いてやらなきゃ、誰か別のやつにわがままを言うだろ?」
彼は、ぶっきらぼうに言ってから、
「ま、ボランティアみたいなものかな。」
と付け加えた。ふーんだ。ちょっとすねた僕が、彼の腕の中から逃れて背中を向けると、彼は、ゆっくりと僕の体を後ろから抱き締めながら、
「ほんとは、ほかのやつがおまえのわがままを聞いたりするのが許せないんだ。」
僕の耳たぶに、そんな台詞を吹き込んだりする。僕は、思わず目をつむって、彼の暖かさを背中に感じていた。
なんだか、最近は、彼の暖かさを身近に感じていないと、安心して眠れなくなってしまったような気がする。だから、彼が忙しいのはわかっていても、つい電話をかけて、彼の時間をねだってしまうんだろう。お子様の僕には、彼と会いたい気持ちをどうしようもない。僕の体を後ろから拘束している彼の腕を、両手でゆっくり撫でながら、
「なんだか、最近、すごく忙しそうだね。」
僕は尋ねてみた。まあ、僕自身も、仕事にはそれなりに拘束されるけど、最近の彼は、以前よりも忙しそうな気がする。
「うん、まあな。プロジェクトが佳境になっちゃって、夜遅いのもあるけど、いろいろ、気を使うことが多くって……。」
どんな仕事でもさりげなくこなしてしまうようなイメージを抱いていた彼から、そんな台詞を聞いて、僕はちょっとショックだった。彼に向かって寝返りをうちながら、
「へえ、そうなんだ。」
僕が思わずそう言うと、彼は苦笑して、
「当たり前じゃないか。サラリーマンをやってりゃいろいろあるさ。……健太郎だって、いろいろあるだろ?」
僕の手を握った。もちろん、握るだけじゃなくて、微妙に指を動かして、僕の掌を愛撫したりするんだけど。
「ほんとに、僕、一人じゃやっていけなくなったりして……。」
なんだか、冗談じゃなくて、最近、そんな気がしてきた。
「また、そんなことを言って、俺をたぶらかそうとする……。」
もちろん、彼は、僕のそんな台詞が単なる冗談だと思ってるけど……。なんだか、会うたびに、僕は、彼の引力に捉えられていくような気がする。
「好きなんだから、しょうがないよな。」
いったいどこが好きなんだろう、とは思うけど、『全部好き』としか言いようのない自分がいて、少なからず苦笑してしまう。