もちろん、彼は、僕と大介の間にそんなことがあったなんて気がつきもしないから、
「このまえはごめん、約束してたのにすっぽかしちゃって……。」
と約束を守らなかったことをすごく気にしてくれていた。僕は、ちょっとだけ罪悪感を感じて、
「ううん、いいよ、そんなこと……。」
と言ったけど、
「じゃ、お詫びのしるしに、週末にでも、どこかへ行こうか。」
また、そんな危ない約束をして……。でも、僕は、彼がそんなふうに、僕のことを気づかってくれる、ということだけで十分うれしかった。ひょっとしたら、彼も、僕がうれしそうにしているのが楽しいから、そんな口約束をしてみせるんだろうか。
「どこか、って?」
もし、本当に行けるんなら、海がいいな。
「そうだな、どこか行きたいところがあるか?」
『いっしょに行けるんなら、どこだっていい』なんていう台詞を、彼が喜んでくれるだろうか。最近すっかり懐疑主義の僕は、ちょっと微笑ってから、
「海がいいな……。」
別の意味で、素直に言った。
「そうか、健太郎は、海が好きなんだ。」
そうだよ。すると、電話の向こうで、彼は、しきりに、
「ふーん……。」
なんてつぶやいて、やたら感心してるらしかった。
「……。」
なんだかよくわからないから、僕は沈黙を守った。しばらくして、彼は、まるで自分に言い聞かせるように、
「きれいな海に行きたいな……。」
と言った。彼の脳裏にどんな海の景色が浮かんでるのかわからなかったけど、ま、どうせ、これって、今度の週末じゃないよな。
「それより、今日は、まさか、まだ仕事じゃないよね。」
僕が何気なく尋ねると、彼は、
「いや、まだ会社にいるよ。」
彼はこともなげに言った。思ったとおり、週末のきれいな海が蜃気楼のように遠ざかっていく……。
「でも、もう帰ろうかな、と思ってたんだ。」
彼が、そんなふうに言い訳がましく言うのは、僕がいつもとやかく言うからだろうか。
「そうか、じゃ、気を付けて帰るように……。」
僕は、すでに、自分の部屋でのほほんとしてるのに、まだ、彼はスーツでオフィスにいるなんて、やっぱり実感がわかない。たぶん、彼は、僕のことを気にして電話してくれたんだろうけど、本当に、僕は、それだけで十分なのに……。彼に、僕の気持ちが、受話器から聞こえているだろうか。
そんなことを電話で話して、でも、その週はすごく忙しかったらしく、彼からは電話もほとんどなかった。そんなだから、当然、週末が目前になっても、具体的にどこへ行こうという話にはならなくて、僕は、別にそんなもんだろうな、とは思ってたけど、なんとなくもやもやしたものはあった。
『一応、あれは、約束だったよなあ。』
彼の言葉を聞いて、自分が淡い期待を抱いてしまったことを、僕は否定できなかった。どうしても、あいまいなまま過ごしてしまいたくはなくて、その日、彼が仕事をしてるのはわかってたけど、電話してしまった。
「まだ仕事中?」
いくら携帯電話でも、まだオフィスにいる彼を呼び出すのは、ちょっとためらってしまう。
「そうだよ。」
でも、彼の声は、少なくとも明るく聞こえた。
「今、電話、だいじょうぶ?」
僕の質問に、彼は、ちょっと笑って、
「全然平気、もう、フロアに誰もいないから……。」
と言った。僕は、自分の台詞をのどの奥で吟味するために、小さく息を吐いた。そして、たぶん、この質問は、彼にとって愉快には響かないだろうな、と思いながら、
「明日は、出かけられそうかな、と思って……。」
僕は、そう言った。
「うーん、今日はまだ仕事が残ってるからなあ。終わるのは夜中だと思うんだ。だから、昼ぐらいならなんとか……。」
彼の『夜中』は、一般に言う『夜明け』のことだから、昼頃に出かけるんじゃ、ほとんど寝る時間もないくらいかな。
「できれば、延期してくれるといいなあ……。」
はっきりと、疲れているらしい声で、彼は言った。もちろん、疲れているのが、仕事に対してなのか、それとも、僕に対してなのか、そこまでは聞き取れなかったけど。
「そうか……。」
思わず言ってしまった僕の言葉は、受話器の向こうの彼の耳を突き刺しただろうか?
「ごめん、たまには、部屋のかたずけとか、洗濯もしなくちゃいけないから……。」
たしかに、今週も、ずっと、彼は『夜中』じゃないと帰ってなかったことを、僕は思い出した。僕は、自分が、彼の僕に対する優しさをまた1枚はぎ取ろうとしたことが寂しかった。
「ふうっ……。」
思わずため息をついてしまってから、僕は、ちょっと、しまった、と思った。
「来週なら、きっと、大丈夫だと思うんだけどな……。」
彼は、きっと僕のため息の意味を取り違えたに違いないので、僕は、あわてて、
「いいよ、疲れてるんだから。」
と言った。その時、なぜか、大介が『不幸じゃないよ、僕は』と言った時の顔を思い出して、僕は、大きく深呼吸した。そして、ちょっと楽しいことを思いついて、
「……それより、明日、昼過ぎに遊びに行ってもいいかな。」
できるだけ明るい声で言った。
「俺の部屋にか?」
彼は、いぶかしげな声で言ったけど、
「うん、行くだけ。邪魔しないからさ……。」
僕がそう言うと、
「いいけど、まだ寝てるかもしれないぞ。」
彼は、拒否はしなかった。