別に、トリスタンに行く時に、誰かと出会えるかもしれない、なんて甘いことを期待してるわけじゃない。はずなんだけど、出会ってしまう時は出会ってしまうんだなあ、と感心してしまう。いつものように、何気なく店の扉を開けて、
「あら、いらっしゃい。」
マスターの顔を見て、
「ここが空いてるわよ。」
隅っこの席に促されたところまでは、いつも通りの自分だった。でも、その人の隣に座っただけで、僕はもう、どきどきしている。
『だ、誰だろう、この人……。』
初めて見る人だったけど、その人は、僕の方を、ちら、と見て、ちょっと微笑ってから、小さくうなずいてみせた。マスターは、
「水割りでいいわね。」
さっさと僕のボトルを取り出して、いつも通りの、ちょっと薄目の水割りをコースターの上に置いてくれた。僕が、小さな声で、
「こんにちは。」
というと、彼は、
「やあ。」
と言って、ちょっと微笑ってみせた。きっと、僕は、もうその時から彼のことが忘れられなくなっていたに違いない。彼はそのままマスターと話してたけど、マスターとは以前からの知り合いらしくって、時々僕にはわからない話をしながら、二人で苦笑していた。だから、僕は、知らんぷりをして、大人しく、マスターの出してくれた水割りをすすっていた。でも、本当は彼とマスターの会話に全身で聞き耳を立てていたりしたのだ。そんな僕に気づいたのかどうかはわからないけど、彼が僕の方に振り返る気配があって、
「大介、って言うのよ。」
マスターが、僕を彼に紹介してくれた。
「やあ。」
彼は、また、ちょっと微笑って僕にうなずいた。
「ど、どうも……。」
そんなにいきなり紹介されても、何を言えばいいのかわからなくて、しどろもどろになってしまう。
「昔からの友達なの。」
マスターの昔からの友達じゃ、きっと、いろいろ遊んでるんだろうなあ。
「そんなことないよ、こいつはひどいやつだけど、俺は、ほんと、昔からずっと、真面目なサラリーマンだったんだから。」
彼は、そう言って、僕に弁解する。
「あら、ひどいやつってなによ。あんたのほうが、よっぽどいろいろ、食い散らかしては泣かしてるじゃない。」
マスターは、嬉々として彼の言葉に茶々を入れる。
「そんなことないよ、泣かされてるのは、いつも、俺のほうじゃないか。」
と、彼は、苦笑しながら抗議した。でも、僕にとって、そんなことは、どうだってよくて、だいたい、本当に真面目な人は、自分のことを『真面目なサラリーマン』なんて、形容してみせたりはしないもんだと思うけど……。
「大介も気をつけるのよ。」
マスターにそう言われて、僕は、
「じゃ、僕も気をつけなくちゃ……。」
そう言い返したけど、その言葉が、彼に傾いている自分の気持ちを白状していることには気がつかなかった。
その会話をきっかけに、彼は、僕の方に体勢を向けて、僕の横顔を見ながら話しかけてきた。もちろん、僕はできるだけ正面を向いて話してはいたけど、彼に横顔を見つめられているだけで、なんだか、彼に抱きすくめられたような気分になってしまった。きっと、彼は、僕みたいな甘ちゃんなんか、どうにでも口説けるんだろう。かろうじて残っている冷静な自分が、防戦しなくちゃ駄目だぞ、と忠告してくれるにもかかわらず、僕は、すでに彼の視線から逃れられなくなっていた。しかも、彼は、ありきたりの話の間に、時々、どきっ、とするような冗句を混ぜて、僕の空虚しい抵抗をあっけなく押しのけてしまう。そんなふうに、しばらく彼と話しているうちに、
「……。」
彼が、カウンターの正面を向いてくすくす笑い始めた。
「どうして笑ってるんですか?」
そんなにうけるようなことを言った憶えはないけど……。
「ごめん、でも、なんか、本当に、お約束通りだなあ、と思ってさ。」
はあ?
「だってさ、俺が君のことを『かわいいね』って言うと、君は、『そんなことないです』って言うし、『一回でいいから君の寝顔を見てみたいな』って言うと、君は、『えー、一回だけですか?』って、本当に、こんな時にはこう答えるべきだ、って言う模範解答みたいで……。」
だから、って、そんなに笑うことはないと思うんだけど、彼は、すっかり喜んじゃって、そういうのってひどいなあ。
「……ごめん、ごめん。」
やっと笑い終えた彼は、僕の方に向き直って、
「そんなに怒るなよ。」
と、僕の肩にさり気なく手を置いた。
「別に、怒ってなんかないです。」
僕は、ちょっとふくれっ面をしてそう言ったけど、本当は、自分の肩に置かれた彼の手の暖かさにどきどきしていたのだ。これって、ひょっとして、致命傷かなあ。
「おわびのしるしに、おごるからさ、ちょっとつき合ってくれないか。」
彼に笑いながらそう言われて、僕が断れるはずがなかった。きっと、彼は、僕が断れないのを知っていて、あんな笑顔で僕を誘ったのに違いない。
「どこに?」
まさか、『ホテル』なんていう言葉は期待していなかったけど、
「ふっ……。」
僕の考えを見透かしたかのように彼は笑って、
「とりあえず、一軒、行きたい店があるんだ。」
と言った。
『とりあえず、ってどういう意味だろう。』
でも、これ以上何か言うと、ますます墓穴を掘りそうだったので、僕は黙ってうなずくだけにした。
「マスター……。」
他のお客さんと話をしていたマスターが彼を振り返った。
「あら、もう帰っちゃうの?」
マスターの責めるような口調に、彼は苦笑しながら、
「また寄るよ。」
と言った。
「まさか、お持ち帰りかしら?」
伝票にペンを走らせながら、マスターは、ちら、と僕に意味深な視線を投げかけた。
「いっしょにしといて。」
しょうがないわね、とかなんとかつぶやきながら、マスターは伝票の端っこを切って寄越し、彼は、さっさと僕の分まで払ってしまった。
「じゃ……。」
彼は、ちょっとマスターに手を挙げると、そのまま僕を連れて店の外に出た。
「あ、僕、払います、自分の分くらい。」
店の外に出てから、僕がそう言うと、彼はちょっと苦笑して、
「いいよ。」
僕を振り返らずに、さっさと歩き始めた。
「で、でも……。」
僕が、彼に追いつくと、彼はちょっと立ち止まって、
「いいじゃないか、俺のほうが年上なんだから……。」
そ、そういう論理で来られると、反論することができない。
「だけど……。」
彼は、微笑って、
「いいじゃないか、今日は俺がおごるよ。」
でも、きっぱりと、押し返せないような強さを含んだ声で言った。
「そんな……。」
そして、僕がまだ何か言おうとしているのを封じ込めるように、
「じゃ、また、今度会った時におごってもらうよ。」
と言って、さっさと歩き始めてしまった。そんなこと言って、今度会った時にも、そういうふうに言って誤魔化すくせに。