きっと僕の場合は、誰かを好きになるのって、初めて見た瞬間なのに違いない。
『あ、いい人だな。』
そう思った時には、もう、その人を好きになっているんだろう。だから、彼に連れられて行った次の店では、僕はもう、すでに彼のパートナーだった。
「あら、いらっしゃい。」
いっしょにいる僕を見て、意味ありげに迎えてくれたその店のマスターの視線をさえぎるように、彼は、
「水割りでいいかな?」
僕に尋ねると、バーボンの水割りを2つ注文した。そして、
「はい、どうぞ。……どこで引っかけてきたのかしら。」
彼のことをよく知っているらしいマスターがそう尋ねても、彼は、
「かわいいだろ?」
なんて、はぐらかしている。僕は、何にも知らないふりで、でも、ちゃんと少しだけうつむいてはにかんでいたりする。マスターは、
「そうね……。」
かなんか言って僕に流し目をしながら、
「ごゆっくり。」
と、他のお客さんの相手をするためにカウンターの中を漂っていった。その店は、トリスタンよりもちょっと暗くて、ちょっと静かだった。
「ここは、よく来るんですか?」
少しでも、彼のことが知りたくて、僕は、彼に問いかけていた。
「うん、時々ね……。」
彼は、ちょっとだけ言いよどんだ後で、
「本当は、俺、出張で来てるんだ。」
と、ちょっと申し訳なさそうに言った。
「え?じゃあ、この街の人じゃないんですか?」
でも、何となくそんな気はしていたので、僕は、自分の言葉ほどには驚いてはいなかった。
「うん。就職してすぐの頃は、このへんによく出入りしてたんだけど、転勤で別の街に行っちゃったから……。」
そうなんだ。それで、トリスタンのマスターも、ここの店のマスターも、彼のことをよく知ってるんだ。
「昔は、いろいろ遊んでたんですか?」
僕が尋ねると、
「そんなことないさ、真面目なサラリーマンだったんだから……。」
彼は、笑って誤魔化す。その笑顔が何とも言えなくて、結局僕は、それ以上彼を追求することができない。だから、僕は、
「ふうん。」
と首を傾げてみせるのが精一杯だったりする。そうすると、彼は、
「まあ、いろいろあったけどね……。」
照れくさそうにそう言ったけど、その時の彼の視線は、きっと僕を通り抜けて昔の自分を見ていたんだろう。
 いったい、僕は、彼とどんなことを話したんだろう。僕が何か言うたびに、彼は、面白そうに笑ったり、ちょっと真面目な顔をしたり、にっこり微笑ってみせたりした。僕は、夢中になってそんな彼を見つめていた。僕の気がつかない間に、どんどん時間がこぼれ落ちていって、そして、いつの間にか、アルコールとざわめきから退散すべき時間になっていた。彼は、さり気なく腕時計を見ると、僕の方に顔を向けて、ほんのちょっとの間、呼吸を計っているような表情をした。そして、
「今日はホテル泊まりなんだけど、もし、よかったら、俺の部屋に来ないか?」
そう言った。その言葉の選び方や言い方が、これまでの彼に『いろいろあった』ことを物語っているような気がした。
『やっぱり、いろいろ遊んでるんだ。』
そうは思うけど、それでも、僕には、彼の言葉を拒否したりできなかった。
『別に、一晩だけでもいいや。』
自分自身にそう言い聞かせながら、僕は、
「……。」
上目づかいでちょっとだけうなずいて、彼の怪しく輝いている瞳を見た。すでに手遅れなくらい彼のことを好きになってしまっている僕には、その瞳に映っている自分の姿さえ見えていなかった。
 彼は、僕を促して席を立つと、
「マスター……。」
と呼んだ。煙草を持った手を物憂げにほおに当てて他のお客さんと言葉を交わしていたマスターが振り返って、
「あら……。」
訳知り顔で、彼に紙切れを手渡してから、
「せっかく来るんなら、もっと前もって連絡してちょうだい。たまには、晩ご飯でもいっしょに食べに行きましょ。」
と、彼に言った。
「そうだね、また連絡するよ。」
彼は、相変わらず、苦笑しながらそう言ったけど、マスターは、ふうっ、と煙草の煙を吐き出しながら、
「そんなこと言って、連絡してくれたことがないんだから……。」
と、ちょっと彼をにらんでみせた。でも、彼は、そんなマスターの視線に気づく素振りもみせずに、
「じゃ、行こうか。」
と、僕の背中を押すようにしてその店を出てしまった。
「ありがとう……。」
閉まるドアのすき間から、マスターのあきらめたような冷めた声が、彼と僕を見送った。
 タクシーでホテルに帰ると、さすがにこんな遅い時間だから、ロビーも閑散としていて、ベルの人が静かに、
「お帰りなさいませ。」
と言ってくれるだけだった。彼は、それに軽くうなずくと、さっさとエレベータのところまで歩いていった。
「だいじょうぶですか、いっしょに行って。」
ちょっと不安になった僕がそう言っても、彼は、全然気にするふうもなく、
「平気平気。」
彼は、当然みたいな顔でエレベータのボタンを押している。
「こっちこっち。」
そして、当たり前みたいな顔で僕を部屋に案内するので、その態度には、別の意味で感心してしまった。でも、その部屋がちゃんとツインだったりするのにはもっと感心してしまう。こういう事態を見越して、彼はツインの部屋を取ったんだろうか……。つまり、どこかで引っかけた誰かをホテルの部屋に連れ込む、っていうような事態を……。きちんとベッドメーキングされた2つのベッドを見ながら、僕は、
『彼は、いったい、どんなやつをこの部屋に迎え入れるつもりだったんだろう。』
この部屋に連れ込まれるはずだった僕以外の誰かに嫉妬している。だから、僕は、
「今日は、絶対、誰か連れ込むつもりだったんですか?」
せめてもの皮肉を言ってみせたけれども、彼は、微笑いながら、
「誰か、じゃなくて、君を連れ込むつもりだったんだ。」
テキーラのように刺激的な台詞をつぶやいてから、ゆっくりと僕を抱き寄せた。
「……。」
僕は、初心な少年みたいにほおを熱くして、言うべき言葉を必死で探している。そんな僕を見て、彼は、
「ふっ……。」
ちょっと微笑った。そして、両腕に抱き締めている僕を、ラムのように甘いkissで、すっかり手なずけてしまったのだ。彼の唇がゆっくり離れていったと思うと、彼の両手が僕の肩にかかって、僕は、そのままベッドに押し倒されてしまった。
「シャワーも浴びてないのに……。」
僕の形ばかりの抗議は、
「後で浴びればいいさ。」
あっさり却下されてしまう。
「あっ……。」
彼の指が、彼の唇が、僕の体中のいたるところに快感の火種を植え付けていく。僕は、彼の腕の中で、自分がどうしてそんなにも感じてしまうのか不思議だった。僕の全身は、彼の植え付ける快感にじわじわと支配されていったけど、それと同時に、僕の心には、彼という存在がどんどん焼き付けられていった。
「うっ……。」
快感のほてりはゆっくりと引いていったけど、僕の心のほてりは治まる気配がなかった。結局、シャワーを浴びることもなく、僕は、彼の腕の中でいつの間にか眠りについていた。