僕の予想とは違って、彼は、毎晩、電話してきてくれた。1週間に一度の、ホテルのベッドでいっしょに寝ている夜をのぞいて、いつも受話器の向こうから彼の声が響いてきた。
「なんだか、これじゃ、近くに住んでる人とつき合ってるより、よっぽどひんぱんに会ってるかもしれないね……。」
僕がそう言うと、受話器の向こうでちょっと笑う気配があった。
「だから、こんなに毎日電話してくれなくたっていいのに……。」
なんだか申し訳ないような気がして、僕がそう言うと、
「嫌なのか?」
彼は、わかってるくせにそんなことを言う。もちろん、彼からの電話は無条件でうれしい。
「嫌じゃないけど……。でも、今は毎週会ってるんだから……。」
彼は、また、受話器の向こうでちょっと笑う。
「無理をしてるんじゃないかな、と思って。」
僕には、何となく彼の立場への遠慮もあったし、漠然とした不安感もあった。だから、つい、見え透いた強がりを言ってしまう。でも、僕がそんな気持ちの時は、彼は、いつも僕をくすぐるような台詞を用意してくれる。
「俺には、電話しかないからな。」
今度は、僕が、受話器を握り締めて微笑う番だった。僕は、そんなにも彼が僕のことを想ってくれているということに、自信を持つことができない。
「電話代だって、馬鹿にならないし……。」
だから、僕は、どうでもいいような言い訳をする。
「毎日電話しないと、大介が俺の声を忘れちゃうんじゃないかと心配なんだ。」
僕は、涙が出てこないように、ぎゅっと目を閉じた。いつから僕は、こんな泣き虫になっちゃったんだろう。
『忘れちゃうことができるくらいなら……。』
もし彼が、いったい僕がどのくらい彼に『いかれ』ちゃってるかを知れば、こんなことを言ってくれなくなってしまいそうな気がするので、僕は彼のその言葉にあえてコメントはしない。電話で話していてさえ、彼は、僕の心を彼に釘付けにしてしまうのだ。
 それからひとしきり他愛ない話をした後で、彼は、
「あれから、行ったか?」
そう言った。『行ったか』と尋ねられて、僕には、彼のいきなりの質問の意味が理解できなかった。
「どこへ?」
電話の向こうで、ちょっと躊躇する気配があって、
「トリスタンさ。」
彼が、ぼそっ、と言った。
「行ってないよ。……どうして?」
何か気になることがあるんだろうか……。
「いや、別に……。」
彼は、言葉を濁してしまった。たぶん、これ以上、僕が追求すべき話題じゃないらしい。でも、そう言われれば、ここしばらく、トリスタンには顔を出していなかった。もちろん、他の飲み屋にもだけど。遠距離の彼とは毎週会っているのに、もう一ヶ月近くもトリスタンのマスターの顔を見ていないなんて、言われてみればなんだか変な感じ。彼と会っている時は、彼があんまり出たがらないので、飲みに行ってなかったのだ。
『だって、ゆっくり大介と話せないだろ?』
確かに……。本当に聞きたいことは、やっぱり二人っきりじゃないと質問できないと思う。でも、僕と二人っきりでいるほうがいい、と言ってもらうのは、うれしくはあるけど、なんだかくすぐったいような感じもした。そして、彼と会っていない残りの日も、ひょっとしたら彼からの電話があるかな、と思うと、僕は、なんとなく飲み屋に立ち寄る気にはなれなかった。
「じゃあ、明日、会社の帰りにでも、トリスタンに寄ってみようかな。」
僕は、彼の言葉の続きが気になったのもあって、久々にトリスタンに顔を出してみるのもいいかな、と思っていた。
「悪いおじさんに引っかからないようにな。」
彼はそんなことを言うけど、すでに、引っかかっちゃってると思うんだよね。
「だいじょうぶだよ。」
だから、僕は、思わず笑ってしまう。
「まあ、俺より悪いやつは、そんなにはいないよな。」
そのとおりだよ。……だけど、引っかかっちゃった僕にも、責任はあるんだろうな、きっと。
 それで、次の日の会社の帰りに、僕は、いつもと同じ、でも、今日は、彼のいるはずのないトリスタンのドアを開ける。
「いらっしゃい。」
可能性にあふれていた学生の頃はよかったなあ。そのうち、白馬に乗った逞しい王子様が僕をさらっていってくれるはずだったのに……。
「人生、って、一つ一つ可能性を脱ぎ捨てていくことなんだな、きっと……。」
それなのに、ここにいるのは、恋はしてるけど、からっぽの自分……。
「何を馬鹿な感傷に浸ってるのよ。」
グラスを洗っていたマスターは、僕の言葉なんかに真面目にとりあおうともしない。
「相変わらずの理屈ばっかりで……。それより、水割りでいいの?」
こういう気分の時は、ジンのロックだよな、やっぱり……。
「結局、彼と、つき合ってるの?」
マスターは、僕の前に、ジンを置きながら言った。何だよー、つき合っちゃいけないのかよー、って飲む前から酔っぱらっててどうするんだろう。だけど、
「そうだよ、だって、いい人だもん。」
僕はそう言うのが精一杯だった。
「しょうがないわねえ……。」
マスターは、ちょっと顔をしかめながら、煙草の煙を、ふーっ、と吹いた。そんなこと言ったって……。
「だから、いい人だ、って……。」
僕がそう言ってるのに、マスターは、
「いい人はわかってるわよ。……やっぱり、大介もたぶらかされちゃったのね。」
なんて言う。でも、僕がたぶらかされちゃうのをわかってて、彼が僕のことをお持ち帰りするのを黙認したのはマスターだろ?
「あら、だって、一回だけ、っていうのもあるじゃない。」
そりゃそうだけど……。なんにしても、もう手遅れだよ。こんなに好きになっちゃったんだから。僕は、ちょっと意を決して、
「そんなこと言ったって、好きになっちゃったんだから、しょうがないだろ?」
はっきり宣言する。今さら彼以外の人なんか、考えられないよ。それに、そもそも、一番最初に彼の隣に座るようにさせたのはマスターなんだから。
「まあ、それはあるけど……。」
って、別にいいけどね、好きになっちゃったのは僕なんだから。
「ま、大介ががんばれる間は続くと思うけど……。」
うーん、ま、いいのかしら、かなんか言いながら、マスターは、ちょっと首を振ってみせた。その様子を見て、僕は、彼が言葉を濁したことを今さらのように思い出していた。つまり、彼は、マスターのこの台詞を僕に聞かせたかったんだろうか……?