あんまり考えることなく歩いて、トリスタンにたどり着いていた。ドアを開けると、
「あら、いらっしゃい。」
マスターの声が僕を出迎えてくれた。
「やあ。」
そして、マスターの声にかぶって、誰かが僕に声をかけてくれた。
『あ、健太郎か……』
僕は、自分に声をかけてくれる人がいたことになんだかほっとして、
「あ、久しぶり。元気でやってる?」
健太郎の人なつこい笑顔に返事をした。そういう意味では、健太郎の笑顔も、僕は好きなんだよな。だけど、健太郎はつき合ってる人がいるからなあ。って、僕も、つき合ってる人がいるんだった、遠距離だけど……。
「元気だよ。……そういう大介は?」
僕は、意味もなくぶら下げている鞄を肩から下ろしながら、
「うーん、まあまあかな。」
健太郎の隣に、でも、1つ空けて腰を降ろした。きっと、それは、僕の照れ隠しだったんだと思うけど、
「あら、詰めて座れば?寂しい同士。」
そんなデリカシーをかけらも持ち合わせていないマスターに、僕は、健太郎の隣に詰めて座らされてしまった。それとも、ひょっとして、デリカシーのないはずのマスターが、僕のブルーな表情に気づいて、僕が健太郎と話しやすいようにしてくれたのかな。
「今日は一人?」
健太郎の隣には、いつもの彼の姿がなかった。
「うん、なんだか忙しいらしくって」
健太郎の言葉の響きの中にある微妙なささくれが、僕の心にざらついた。僕が、言うべき言葉を思いつかなくて黙り込んでいると、マスターは、さっそく僕たち二人をからかい始める。
「大変なのよ、健太郎は。……でも、大介も不幸なのよね。」
マスターの『不幸』という言葉に、さっきの店でのやりとりが鮮やかによみがえって、僕は、思わず、
「不幸じゃないよ、僕は。」
自分でもびっくりするくらい強く言ってしまった。
「すごく幸せだもん、僕は。」
健太郎が、ちょっとびっくりしたような目つきで僕の方を見て、それからマスターに視線を向けた。マスターは、すぐに、
「今度も、また遠距離で、そのうえ妻子持ちなのよ、大介ったら。」
なんて、しゃべっちゃうんだから困ってしまう。でも、今さら、健太郎に隠したって始まらないよな。それにしても、おしゃべりだなあ、マスターは。
「あら、おしゃべりじゃないわ、正しい情報を提供してるだけよ。」
ま、いいけどね。僕は、なんだか、健太郎には誤解されたくなくて、正直な気持ちをしゃべろうと思った。
「僕、本当は、すごく迷ったんだ、彼とつき合うのを。」
氷のすき間を薄いやに色のアルコールが埋めているグラスから、僕は、冷たくて刺激的な液体を一口すすってのどを湿した。
「でも、一番最初の時に彼が、『遠距離で妻子ありだけど、きっと君に寂しい思いはさせないから』って、言ってくれたから……。」
そう言ってくれた時の彼の声が、僕の耳元でよみがえる。
「まー、うそつきな男ね。好きになれば好きになるほど寂しいのが、遠距離恋愛なのに。」
でも、マスターにかかっちゃ、僕の感傷なんか、蛙の面にシャンパンだったりする。って、これは、キリンジの歌う歌詞だっけ?
「電話じゃこんなに近いのに、どうして抱き締めてもらえないんだろう、って泣くのが遠距離でしょ?」
そりゃそうだけど……。
「……そこまで言わなくても。」
マスターの言ってることが正しいことは、本当に、身をもってわかってるけど、さすがに、さっきの今なので、僕には、さらっ、と受け流すことができなかった。
「僕だって、わかってるよ、そんなことくらい。」
あー、こんなことでアルコールに頼っちゃいけないんだよな、とつぶやきながら、でも、もう一度グラスを傾けてしまう。きっと、さすがにマスターも言い過ぎたと思ったらしく、
「泣きたくなったら、いつでもこの胸を貸してあげる。」
僕の顔をのぞき込むようにしてフォローしてくれた。
「……ありがとう、でも、マスターの胸だけはやめとくよ。」
だから、僕も、せめて、捨て台詞を口にした。
「まー、失礼ね。」
マスターの口調に、僕は、自分がちょっと笑っているのを感じた。そして、僕は、
「それだったら、まだ、健太郎のほうがいいよ。」
なんて口走ってしまった。どうして、こんなことを言っちゃったんだろう。確かに、以前から、健太郎のことはいつも気になってたけれども、僕って、本当は、健太郎のことが好きだったんだろうか……。
「そうよ、あんた達ができちゃえばいいのよ。」
マスターにそう言われると、なんだか、それが当然のことのように思えてしまう。
「そうだね、そうすればよかったなあ。」
ごめん、健太郎、僕、酔っぱらってる……。
「で、できちゃったら、ちゃんと報告するよ。」
健太郎が焦ってるのがわかったけど、僕は、こんな夜を健太郎に支えてもらいたかった。ちょっと健太郎の方に体を寄せるようにすると、僕の太腿が健太郎の太腿に触った。嫌がるかな、と思ったけど、健太郎は僕の脚を避けずに、しっかりと受け止めてくれた。たとえ、それが、酔っぱらった僕の誤解でも全然かまわないような気がした。
健太郎にも、僕の気持ちは少しは通じたのかなあ。でも、考えてみれば、こんなにいろいろな話を健太郎とするのは初めてのような気がする。健太郎と他愛ない話をしているうちに、僕の心の中のブルーは、少しずつ薄まっていった。もちろん、話だけじゃなくて、健太郎の太腿の暖かさも、僕の全身に伝わっていったけど。どのくらい時間が経ったんだろう、健太郎は、さり気なく腕時計を見て、
「そろそろ帰ろうかな。」
僕の方を、ちら、と見た。そのサインを見逃すほど、僕が世間知らずだったりするはずがあるだろうか?僕は、にこっ、っと笑って、
「じゃ、僕も帰るよ。」
と、健太郎に言った。まだ、ろれつが回ってるからだいじょうぶだな。
「二人でがんばるのよ。」
店を出る時に、マスターが何か言ってくれたけど、僕は、全然聞いちゃいなかった。その時の僕は、本当に、健太郎のことにしか意識を向けていなかった。たぶん、僕が何も言わなければ、絶対に、このまま『じゃ、またね』だな、と思ったので、僕は、できるだけ無難な台詞を探して、
「これからどうする?」
と、健太郎に言った。でも、考えてみれば、これって、結構大胆な台詞かもしれない。
「うーん、どうしようか。」
健太郎の『どうしようか』が、僕に『じゃ、またね』を言うべきかどうかを考えてるんじゃなくて、これから僕とどこに行くかを考えてくれているらしいことが、僕の勇気の背中を押してくれた。
「僕の部屋に来てくれれば、コーヒーくらい入れるよ。」
できるだけさり気なく言ったつもりだけど、健太郎には僕の台詞はどんなふうに聞こえただろうか。どきどきしている僕を振り返って、
「じゃ、ごちそうになりに行こうかな。」
そう言って健太郎がにっこり笑ってくれたので、僕は、本当にうれしかった。それで、健太郎の気が変わらないうちに、
「じゃ、行こう。」
大急ぎでタクシーをつかまえて、とにかく健太郎を車の中に押し込んだ。