次の日、肉体的にはそうじゃなかったけど、精神的に疲れきった感じで、僕は、自分の部屋に仕事から帰ってきた。やっぱり、自分の部屋にたどり着くとやっぱりほっとする。スーツを脱いで、ネクタイをはずしていると、いきなり携帯電話が鳴った。彼だ。
「もしもし……?」
ほんのちょっとためらって、僕は電話に出た。
「まだ仕事中か?」
彼の声は、いつもと全然変わりなかった。
「ううん、もう家に帰ってきたよ。」
僕は、自分の声が、いつもと同じ表情で彼の耳に響いていることを祈った。
「きのう、夜中に電話したんだけど、まだ帰ってなかったのか?携帯も留守電になってたし……。」
僕は、ちょっと息を吸って、つばを飲み込んだ。
「ちょっと、友達のところに泊まってたから……。それより、今、電話してていいの?」
言い訳の台詞に付け加えて、ついそんなことを言ってしまう。
「だいじょうぶだよ。」
きっと、彼には、僕の言い訳が嘘だとわかったに違いないけど、彼の声はちょっと微笑っていて、余計に僕の心に突き刺さる。
「ちょっと待っててもらっていいかな。今、着替えてたところなんだ……。」
僕が言うと、彼は、
「じゃ、5分くらいしたらまたかけ直す。」
そう言って、電話を切った。
『5分間のモラトリアムか……。』
いつもなら彼からの電話は無条件にうれしいのに、今日は、ちょっと複雑な気持ちになりながら、Tシャツとトランクスの上に、そこら辺にあったショートパンツをはいて、ロッキングチェアに腰を降ろすと、今度は部屋の電話が鳴った。
「もしもし……?」
きっかり5分経っていた。
「今日はちゃんと仕事したのか?」
え?いきなり?
「ちゃ、ちゃんとしたよ……。どうして?」
彼は受話器の向こうでちょっと微笑って、
「友達のところに泊まったなんて、きっと、昨日の夜は飲んだくれてたんだろうな、と思って……。」
なんて言ってる。
「普通にサラリーマンしてたよ……。」
僕は、一応、そう言ったけど、確かに、二日酔いだったことは否定できないなあ……。
「きっと、二日酔いで仕事にならなかったんじゃないかと思ってさ。」
本当のことを言えば、二日酔いだから、というよりは、別の意味であんまり仕事にならなかったんだけど、それは彼には言わない。
「そんなことないよ、仕事は仕事だから……。」
決して言い訳じゃないはずなのに、どうしてこんなに汗が出ちゃうのかなあ。
「本当に、いたずらな子犬みたいなもんだから、どこで何をやってるかわからないもんな。」
くすくす笑いながら、彼はそんなことを言う。でも、僕は、あくまで、
「残念ながら、子犬ほどはかわいくないけどね。」
彼の台詞の意味には気がつかなかったふりをする。
「だから心配なんじゃないか。」
彼は、そんな僕の憎まれ口にも、余裕を持って、からかうように言う。でも、『子犬ほどはかわいくないから心配』、ってどういうことなんだろう。
「ちょっと酔っちゃって、帰るのがめんどうだったから、友達のところに泊めてもらったんだ。」
確かに健太郎は友達には違いないけど、眠ったのは自分の部屋だったから、これは嘘だよな。
「それならいいけど。……ひょっとして、路上とかで酔いつぶれてるんじゃないかと思って心配したよ。」
そこまで酔えりゃ立派だと思うけどね。残念ながら、僕には無理みたいだけど……。
「そのかわり、ソファで眠らされた。」
これも嘘だよな。しっかり健太郎の腕枕で眠ってたもん。どうして、こんなに平気で嘘がつけちゃうんだろう。
「まあ、そのくらいは受忍限度だろう。」
彼はそんなことを言ってくすくす笑っている。
「まあ、そうかもしれないね……。」
僕は、応えるべき正しい呪文が思いつかなくて、そんなあいまいな台詞を口にした。きっと、彼も、僕のそんな雰囲気の意味を理解しているはずなのに……。
その後、一呼吸あって、彼が微妙に影を含んだ声で言った。
「ところで、急に出張が入っちゃって、来週の週末にそっちに行くんだけど、会ってくれるかな?」
僕は、彼の声の色合いに気を取られてしまって、彼が何て言ったのか理解できなかった。
「え?!何?」
彼は、ちょっと笑ってから、
「だから……、出張で、来週の週末にそっちに行くから、会ってくれ、って。」
今度は、いつものように、押し返せないような強さを含んだ声で言った。
「……本当に?」
彼に会えないことで健太郎とあんなことになっちゃって、彼にも気まずい思いをしてるのに、急にそんなことを言われると、どんな反応をしていいのかとまどってしまう。
「だいじょうぶかな?」
彼は、僕のそんなとまどいに気づいていないように、もう一度さっきの口調で言った。
「うん。」
つい、ほおがゆるんでしまいそうになるのをこらえて、僕は、できるだけポーカーフェースな声をこころがける。本当にしょうがないよな、僕って……。
「金曜日の朝行って、日曜日まではいられないから、土曜日の夕方に帰っちゃうけど……。」
土曜日には帰っちゃうのか……。だけど、
「でも、金曜日は泊まるんだよね?」
実物を見ながら話ができるんだと思うと、それだけで、すごくうれしい。
「ああ。」
こんな電話だけで有頂天になっちゃうなんて、しょうがないなあ、とは思うけど、
「うれしいなあ……。」
正直に言わずにはいられない。
「喜んでくれて、俺もうれしいよ。」
彼の苦笑している顔が目に浮かぶ。
「じゃ、また電話するから……。」
彼の声を聞きながら、ひょっとして、無理矢理出張を作ってくれたのかなあ、という考えが、ちら、と頭の片隅に浮かんだ。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、もしそうだったとしても、彼が、僕の疑問を肯定したりするはずがない。僕は、余計なことを考えるのはやめにして受話器を置いた。もちろん、さっきまでの僕の『精神的疲労』はすっかり解消してしまっていた。