Dreaming 俺

火曜日, 4月 29, 1997

 玄関のドアの鍵が、外からかけられる音を聞いて、俺は、言いようのない後悔の念に襲われた。
『言わなくてもいいことを言ってしまった……。』
俺には、玄関のドアを開けて、彼を追いかけて行くだけの勇気はなかった。
『どうしよう……。』
俺の心の中には、起こってしまったことへの言い訳しか浮かんでこない。
『連絡しようと思ったんだけど、会社の連中といっしょだったから、電話できなかったんだ。』
そして、
『もう、遅くなったから、今さら行ってもしょうがないかな、と思って、行かなかったんだ。』
そして、
『別に悪気はなかったんだ。ホワイトピッピのマスターといっしょだったんなら、さぞかし楽しかっただろ、って、冷やかしのつもりだったんだ。』
そして……?
 彼が、自分の部屋に帰ったのはわかっている。俺は、彼に電話するべきなのか?
「……。」
何も考えずに、俺は、とりあえず彼の部屋の電話番号をダイアルしていた。回線のつながる雑音がして、呼び出し音が鳴る直前に、俺は受話器を置いた。
「何て言えばいいんだ?」
俺は、彼に、何て言えばいいんだ?謝るのか?慰めるのか?何を謝るんだ?何を慰めるんだ?何て言って……?
「……。」
どうすればいいんだろう。
「ふう……。」
いろいろな可能性を考えて、それに対するシミュレーションを何度も頭の中で繰り返してみても、結論は出なかった。
「何もせずにいるのか……?」
結局、俺は、自分で思っていたよりも、ずっと卑怯な奴だったんだ、ということだけがわかった。
 俺は、彼を追いかけることも、電話で呼び返そうとすることもあきらめて、ゆっくりとロッキングチェアに腰を降ろした。そして、呪術のような音楽を部屋に満たしながら、
『俺は、彼のことが好きなんだろうか。』
ふと、そんなことを思う。
『それとも、彼のなかに見る、昔の自分が好きなんだろうか。』
彼の清潔でなめらかなうなじも、初々しい乳首も、堅く肉の締まった尻も、俺は、きっと彼自身よりもよく知っている。そして、最初のうちこそ、俺の部屋の中でまぶしいまでの特異点だった彼の存在は、俺にとって、いつのまにか当たり前のものになっている。玄関で出迎えてくれるペンギンランプがいて、俺の重さを受け止めてくれるロッキングチェアがあって、ちょっとはにかむように微笑う彼がいる。彼の重さを、俺が受け止めていただろうか?少なくとも、彼が終電で疲れ切って仕事から帰ってくれば、
『遅かったな。』
ああ、帰って来たんだな、と意識するような。
『うん、なかなか仕事が終わらなくて……。』
彼には彼自身が帰るべき部屋がもう一つあることすら意識しないような。
 その夜、ベッドで眠りにつこうとする時に、どんなに腕を伸ばしても、彼の体に触れないことが、俺を改めて寂しい気持ちにさせた。
『くすぐったいよ……。』
俺の指のたわむれに、そう言って抗議する彼の声が聞こえないことが、俺の眠りを妨げた。実際、何度も玄関のドアが開いたような気がして、俺は夜中に目を覚ました。
「……ふう。」
ペンギンランプが独りで虚しく輝いていることを確認するために、何度、ベッドを抜け出しただろう。無意識のうちに彼の体を引き寄せようとして、そのたびに、独りでベッドに眠っていることを改めて確認させられた。
「ちゃんと、部屋に帰ってるよな。」
俺の独り言は、俺の不安を慰めてはくれなかった。その夜は、眠ったような、眠らなかったような、長い夜だった。
 早朝の薄明かりの中で、自分が独りでベッドに寝ていることを再確認して、俺は、重いため息を飲み込みながら、ゆっくりと目を閉じた。
「……。」
もちろん、今までにも、彼が自分の部屋に帰ったりして俺の部屋にいないことは何度もあった。それどころか、ここしばらくのことだけを考えてみても、彼が俺の部屋に泊まった夜よりも、泊まらなかった夜のほうが多いに違いない。
『それなのに、俺は、こんなに深い喪失感を味わっている。』
ベッドの上に上半身を起こして、俺は、彼がどんなに深く俺の中に浸食しているのかを思い知らされていた。そんなことは、わかり切っていたことなのかもしれないけれども……。俺の中には、扱いにくくても、抱えているだけの価値のある、彼の実体のかけらが、そこらじゅうにきらめいている。
「どうしよう……。」
目覚まし時計は、そろそろ、ベッドを離れるべき時間が近いことを思い出させてくれる。
「もう帰って来ないんだろうか。」
俺は、ふと、そんなことを思いながら、まだ鳴り始めてもいない目覚まし時計のアラームを停めて、ゆっくりとベッドから脱け出したのだった。