Dreaming 僕

火曜日, 4月 29, 1997

 これは、いったい、何回目の彼との待ち合わせになるんだろう。僕は、彼と初めて会った店で、一人でグラスを傾けていた。彼と待ち合わせの時は、悪気はないんだけど、たいてい僕の方が待たせてしまう。最初の頃は、こんなにきびしくは言われなかったけど、最近は、
「遅いなあ。」
とか言って、さんざんしかられてしまう。それなのに、今日は珍しく、僕が待たされていた。今日は、時間は決まってなくて、しかも、
『会社の連中と飲みに行くから、遅くなるかもしれない。』
と言ってたから、仕方がないんだろうけど。でも、僕のときは、ほんのちょっとの遅刻でも、
「時間は守らなきゃ駄目じゃないか。」
なんてきびしいんだから、困ってしまう。もちろん遅刻する僕が悪いんだけど、
「ずいぶん待たされたからなあ。」
とか言って、
「ごめん、ちょっと仕事が抜けられなくて、本当にどうしようもなかったんだ。」
いっしょうけんめい言い訳しても、なかなか許してくれない。仕事で誰かにつかまっちゃって、本当にどうしようもないときもあるのに、
「俺に対する誠意がないよな。」
なんて言って、いじめられてしまう。そして、あげくの果てに、
「じゃ、そのかわりに、今日は……。」
なかなか眠らせてくれなかったりして……。まあ、それはそれで僕も嫌じゃなかったりするから、余計に困ってしまうんだけど。
 僕は、そんな自分の冗談の独白に、グラスをゆすりながら、そっと微笑っていた。
「本当にしょうがないよなあ……。」
しょうがないのは、遅刻をネタに僕をもてあそんだりする彼のことだろうか。
「何を笑ってるの?」
たまに独りでいると、珍しがって、マスターがかまってくれる。
「ううん、何でもない、ちょっと思い出し笑いをしてたんだ……。」
彼のことを思って笑ってたなんて、さすがに照れくさくて言えない。
「何かいいことでもあったのかしら?」
こうやって、公式に誰かのことを思っていられる、というのは、僕にとって、精神衛生上、非常に好ましいことのように思う。彼にとっては、たぶん、今頃、くしゃみのタネでしかないかもしれないけど。
「……。」
僕は、彼のことを思い出して、思わず、もう一度微笑ってしまった。
「まあ、気持ち悪いわねえ、人の顔を見てニヤニヤして……。」
マスターの顔を見てニヤニヤなんかしてないよ。思い出していたのは、彼の、
『じゃあ、そのかわりに、今日は……。』
と言う時の、ちょっとエッチになった彼の瞳なのに……。
 それにしても、彼は遅い。いくら遅れて来るといっても、そろそろ二時間になるかもしれない。そんなことを思いながら、僕は、時計に、ちら、と目をやった。すると、僕のその仕草を、マスターはめざとく見つけて、
「待ち合わせなんでしょ?」
そう言った。
「うん……。」
今度は僕も微笑う気になれなくて、ちょっと渋い顔になっているのが自分でもわかる。
「何時?」
マスターが、ちょっと心配そうな顔をしてくれるので、
「ううん、よくわからないけど、会社の人と飲みに行って、遅くなるって言ってたから……。」
目安にしていた時間は言わないことにする。
「そう、それじゃあ、仕方がないわねえ。」
でも、それならそれで、連絡の電話くらいくれてもいいのに。『ホワイトピッピ』に居ることは、わかっているはずなんだから。でも、僕の携帯電話も、ホワイトピッピの電話も、その日に限って、かたくななまでに沈黙を守っていた。
 そして、そんな状態のまま、終電が近くなっても、僕は独りでグラスをゆすっていた。もちろん、僕は、彼のことを待っているような素振りも、まして、少なからずいら立っているような表情も、決して見せないようにしてはいたけれど、きっと、だからこそマスターにはわかってしまったらしくって、
「今日はもうヒマだから、どこかに遊びに行きましょ。」
客足が途切れたときに、マスターはさっさと店の片付けを始めてしまった。
「え、じゃあ、僕も帰るよ……。」
僕は、あわてて帰り仕度をしようとしたけれども、
「いいじゃない。おごるから、一軒、つき合いなさいよ。」
マスターに押しとどめられてしまった。
「えー、じゃあ……。」
僕も、まだ彼が帰ってきていない部屋に、独りで帰る気にはなれなくて、またカウンターに座り直した。そして、マスターが、グラスを洗ったりするのを、ぼんやりと見ていた。
 後片付けを終えたマスターと行った店で、グラスを傾けながら、僕は、
「来週から、夏休みを取るんだ。」
そんな他愛ないことを話していた。
「いいわねえ、どこ行くの?」
マスターは、ちょっとため息をつきながら、僕を振り返った。
「うん、彼といっしょに……。」
どうして、わざわざ僕は、『彼といっしょに』なんて言うんだろう。
「うちも休もうかしら……。」
マスターは、ちら、と横目で僕の表情をうかがっているように見える。
「でも、まだ行き先が決まってなくて……。」
本当は、今日、その話がしたかったのに……。
「あら、どこだっていいじゃない、いっしょに行けるんなら……。」
いっしょに行けるだけでいい時代は、もう卒業しちゃったよ……。
「……。」
僕が黙っていると、マスターは、ちょっと微笑って、
「好きでいることが大切なのよ。」
僕に諭すように言う。
「……。」
僕はやっぱり黙っていたけれど、
『彼は、僕のことを好きなんだろうか……。』
そんなことを考えていた。僕が好きなようには、彼は僕のことを好きではないんだろうか。それとも、彼が僕のことを好きなようには、僕が彼のことを好きではない、ということなんだろうか?
 マスターと別れた後で、僕は、終わることのない質問を抱えたまま、タクシーに乗った。
「どちらまで?」
運転手に尋ねられて、僕は、一瞬、自分はどこに帰るべきなのか、決めかねてしまった。
「お客さん?」
僕は、彼の微笑った顔を思い出して、やっと彼の部屋の住所を運転手に告げた。そして、もらっている合い鍵で、彼の部屋に入ると、彼はすでに帰ってきていて、例によって、ロッキングチェアに腰をかけてわけのわからない本を読んでいた。
「お帰り……。」
僕は、なんだかはぐらかされたような気持ちで、
「あれ、もう帰ってたの?」
ちょっと非難がましい口調でいった。けれども、彼は、特に僕の声の調子には頓着したふうもなく、
「今日は悪かったな、行けなくて。……飲み会が長引いたんで、そのまま部屋に帰って来たんだ。……ちょっと頭痛もしたから。」
僕に微笑ってみせた。
「そう……。」
僕は、なんといえばいいのかわからなくて、そのまま、ベッドに座り込んでしまった。
「遅かったじゃないか……。」
だって、ずっと待ってたんだよ。
「うん、ホワイトピッピのマスターにつき合わされちゃって……。」
連絡くらいくれてもいいだろ?帰ってるのがわかってれば、もっと早く帰ってきたのに……。
「なんだ、俺がいなくても、結構楽しくやってたんだな……。」
彼が言った……。しばらくの間、『俺がいなくても』という言葉が、僕の頭の中で響いていた。
 別に怒ったわけでもない。悲しかったわけでもない。でも、僕は、急にいたたまれなくなって、
「じゃ、今日は帰る。」
そのまま、もう一度、ペンギンランプの照らしている玄関へ行った。
「おい、帰る、って……?」
ごく普通に靴をはいて、僕は、
「じゃあ。」
といって外に出た。
「待てよ……。」
彼の声を振り切るように鍵をかけると、通りに出て、ちょうど通りかかったタクシーをひろった。そして、今度は、迷うことなく自分の部屋の住所を運転手に告げた。
『僕は、あんなに待っていたのに……。それとも、僕が待っていたのは、彼ではなくて、僕が好きな誰かだったんだろうか。僕が待っている相手は、別に彼じゃなくてもよかったんだろうか……。』
自分の部屋にたどり着くまでのタクシーの中で、僕はずっとそんなことを自問していた。