僕が、いっしょに行ったその喫茶店で紅茶を注文すると、彼はちょっと意外そうな表情をしてから、ニヤニヤした。
「飯を喰った後じゃ、ココアは甘すぎるから……。」
特の弁解も、全然、耳に入らないふうで、
「知も、『確率』っていうやつを信じることがあるんだ。」
完全に僕を馬鹿にしている。
「食後のお茶ぐらい、好きに飲ませてくれたっていいでしょう?」
でも、彼は知らないだろうけど、ここの店は、ちゃんと紅茶をポットで出してくれるのだ。残念ながら、僕は、盲目的に幸運を信じるほど純情じゃない。
彼の皮肉にもめげず意気揚々の体の僕を、彼はうさんくさそうな目つきでながめていたけれども、たっぷりした香りの紅茶が白い陶器のポットで運ばれてくるに至って、やっと、事態を理解したらしい。
「なんだ、よく来るのか?」
彼は、泥水のようなコーヒーをすすりながらつぶやく。
「うん……。」
内心、ざまあ見ろ、と思いがらも、
『駅まで送っていった後で、よく寄るんだ。』
なんていう失言を免れたことに、ホッ、としていた。
「うふふ……。」
やっぱり、お茶、っていうものは、例え時計の針に追いかけられていたとしても、一人で飲むよりは、誰かと一緒のほうが、もちろんできることなら、こんなふうに彼といっしょのほうがいい。
「気持ちの悪い笑い方をして、いったい、どうしたんだ。」
それなのに、彼は、そういうデリカシーをあんまり尊重してくれなかったりする。
ま、いいか、と思いながら、僕は、さっきの話題に戻るべく、もう一口紅茶をすすって、慎重に言葉を選んだ。
「三十才、っていうのは、もう、逃げられない年齢なんだ、っていう気がするんだ。」
彼は、何のことだかわからないふりをして、相変わらず泥水をすすっている。
「いつかは、僕も、三十才になるんだろうけど、だからこそ、こだわってしまうんだ。」
彼は、コーヒーカップを、カチャッ、と静かにソーサーの上に置いて、そっぽを向いたまま、
「三十才なんて、すぐだよ。」
と、嘲笑った。
「もしそうなら、今の僕は、脆い時代にいるという気がするんだ。」
僕がせっかく、真面目に言い訳をしているのに、
「知も、意外と詩人なんだなあ。」
まったく、これだから、嫌になってしまう。
「できることなら、俺も、詩人と結婚したかったな。」
ウィンクまでしてみせる彼に、
「……。」
さすがに僕も、むすっ、とした表情になってしまって、そうすると、彼はすっかり喜んじゃってニヤニヤしてるのだ。
仕方がないから、
「いいんだ、いいんだ、どうせ、僕なんか……。」
なんてすねてみせたんだけど、
「そういう顔をすると、知って、かわいいよな。」
なんて言われちゃったら、これ以上、僕はどんな顔をすればいいんだよ。
「僕も、早く追いつきたい、なんて思うことがあるんだ。」
だから、とりあえず、彼のニヤニヤは無視して、言い訳の続きに専念することにした。
「俺に、か……?」
彼は、ちょっと変な顔をした。
「こういうことを言うと、また、知に、詭弁だ、なんて言われちゃうかもしれないけど。」
彼は、ちゃんとそうやって留保を表明してから、
「知だって、俺に抱かれてる時、大人しくじっとしてたりなんかしないだろう?」
僕を煙に巻く準備を始めた。
「え?!」
食後のお茶をすすりながらの話題として、実にふさわしくないとは思うけど、
「僕、いつも大人しくしてる、つもりだけどなあ……。」
言うべきことは、ちゃんと言っておかなくっちゃ。
「そんなことないだろ?すぐ、ごそごそして悪戯するくせに……。」
それって、いったいどういう意味だよ?
僕の布団でのマナーについて、ここで真剣に議論してみてもしょうがないから、僕はすっかり冷めてしまった紅茶を飲み干して、これに対するコメントはあきらめることにした。
「でも、待っててくれないもん。」
まさか『イクときに』なんていう意味じゃないけど、もちろん彼は、そういうふうに誤解はしなくって、でも、ちょっとあきれたように、
「それは仕方ないだろ。知が年をくった分だけど、俺だって年をくうんだから。」
なんて言う。確かにそれはそうに違いないけど、
「もうちょっと時間があれば、と思うこともあるんだ。」
腕枕なしで眠るのが、寂しくてどうしようもない時がある。
「……。」
彼があんまり真剣な目つきだから、僕は驚いてしまって、
「もっとも、もし時間が有り余ったとしても、実際には、ただ、ポケッ、と、いっしょにいるだけ、になってしまうだろうけど……。」
そんなふうに誤魔化してしまった。
ポットに残っていた紅茶をカップに注いですすると、ちょっと渋かった。
「俺だって、知を押さえつけてしまいたい、と思わないわけじゃないよ。」
マジな顔をして、そういう恐ろしいことを言わないで欲しい。
「結婚してるから……?」
ちょっと意地悪に過ぎたかもしれないなあ、こういう言い方は。
でも、彼は、聞こえなかったふりをして、腕時計を、ちら、とのぞいた。
「そろそろ、帰るかな。」
僕は、無言でうなずいて、それに同意することにした。
「押さえつけてしまいたい、か……。」
僕のため息に、彼は振り向きかけて、あわてて、首を傾げるような格好でその動作をキャンセルした。
「……。」
僕は、少なくとも不味くはなかった紅茶の代金を払いながら、自分には、彼を押さえつけてしまうことなど、夢のまた夢だ、ということが割り切れない気持ちだった。