教育係だから、俺は、しょっちゅう、矢上くんと一緒にいることになった。最初のうちは、『夜明けのコーヒー』の件があって、かなり気まずかったんだけど、できるだけポーカーフェイスを保って、業務に関することを矢上くんに教えていた。矢上くんも、さすがに業務時間中は、まじめに俺の話に耳を傾けたり、OJTみたいなことをやってたからよかったんだけど、週末になると、俺をナンパにかかるんだから、ちょっと閉口してしまう、って、本当は、ちょっと相当うれしかったりするから始末が悪い。
「先輩、今日、時間ありますか?」
俺は、忙しいの。矢上くんの面倒を見てる分、本来の仕事ができてないから、これからやらなくちゃ。
「でも、夜中まではやらないでしょう?」
そりゃそうだけど。
「じゃ、それから俺とデートしましょう。」
なんとストレートな誘い方……。
「ちゃんと俺がおごるから。」
おまえにおごってもらわなきゃいけないほど落ちぶれてないよ。
「じゃ、割り勘で……。」
なんだか、いつのまにか、俺は、矢上くんとデートすることになってしまっている。
「けど、わかってるのか?俺は、ちゃんとsteadyがいるんだぞ。」
一応、そのことは、何度か矢上くんには言ってるはずなのに……。
「だいじょうぶですって、先輩のことを押し倒したりしませんよ。」
そういう問題か?
「もちろん、先輩のリクエストなら、俺は、喜んで、ここでだって押し倒しますけど、先輩のこと。」
ば、ばか。会社の会議室でそんなことできるわけないだろ?
「大丈夫ですよ、誰も来ませんよ。なんならやってみます?」
なんだか、いいようにあしらわれてる気がするなよな、こいつに。俺のほうが、ずいぶん『先輩』のはずなのに……。相手してると、もっと泥沼にはまりそうだったので、俺は、矢上くんの言葉を無視して、会議室を出て席に戻ることにした。とにかく、本来の仕事をしなくちゃ、夜中にだって帰れなくなってしまう。
「どうもありがとうございました、先輩。」
そのうえ、人が見てそうなところでは、従順な後輩ぶってみせるなんて、絶対、こいつ、学生時代もろくなことやってなかったな。
 で、俺は、矢上くんの強引な誘いを振り切って、例の『昔の』彼と並んでカウンターだったりする。
「忙しかったんじゃない?」
単なる修辞的語句だと自分でもわかっているけど、どう切り出せばいいのかわからなくて、俺はそう言いながら彼の方を、ちら、と横目で見た。
「まあな……。でも、君からのお誘いに比べりゃ、どうってことはないさ。」
はいはい、そりゃどうも、光栄です。俺は、彼の言ってることは無視して、話を進めることにした。だいたい、彼の軽口にいちいちつきあってたらきりがない。
「このあいだの、俺の後輩のことなんだけど……。」
なんとか言葉を選んで俺がそう言っただけで、彼は、いたずらっぽくウインクして見せて、
「なんだ、今日はキューピッド役か?」
俺の肩を自分の身体で押した。
「この前は、身体を張っても阻止する勢いだったくせに。」
彼はそう言って苦笑していたけど、それ以上に、俺を見る目が苦々しい。俺は、思わず赤面してしまうのをどうしようもなかった。
「言われなくても、ものにできるときにはそうさせていただくつもりだけど、残念ながら、彼の目には君しか映っていなかったように思うけどな。」
返す言葉がなかったりする。
「それに、君だって、彼のことが気になるんだろ?」
そ、それは……。認めたくないけど、当たっている。
「とりあえず、自分で味見してみたらどうだ?」
また、そういう言い方をする。
「だって、俺は、ちゃんとつきあってる人がいることくらい、知ってるくせに。」
何で、俺が、この人に言い訳しなきゃいけないんだろう。
「君の辞書に、節操、って言葉はないだろ?」
あー、それは、ひどい言い方。
「そんなことないよ、俺だって、ちゃんとつきあってるときにはその人だけなのに。」
そうだった……ろ?
「まあそうだな、俺とつきあってるときに、君の浮いた話は聞かなかったもんな。」
だいたい、steadyがいないときだって、俺は沈みっぱなしで、浮いた話なんかないはずなのに。
「まあそういうことにしておいてやるよ。」
彼の笑顔で、俺は簡単に『あの時』に時間旅行することができる。そして、彼は、俺の方に向き直ると、ほとんど俺の肩を抱くようにしながら、
「俺は、いつだって、君の見方なんだから……。」
俺は、まるで、初めてkissされた時のように、どきどきしてしまう。
「……。」
つい、うつむいてしまって、俺って、自分で思ってるよりも純情だったりするのかな。
「あの時に、言っただろ?……時々は、晩飯なんかも、一緒に食いに行こうな、って。」
もちろん、忘れてなんかないけど。
「君も、ずいぶん、不器用だからな、そういう意味では。」
何だよ、その言い方は。
「今度は、俺から誘ってもいいか、晩飯に?」
え?え?
「話題は、近況に限ることにして。」
そこまで言うと、彼は、また、カウンターに向き直って、グラスを傾け始めた。
「近況は、今でも話せるよ。」
俺がそう言うと、彼は、
「今日は、君の後輩の話だろ?」
てんで相手にしてくれない。俺は、彼の横顔を、ちらちら、と盗み見て彼の感情を量ろうとしたけど、俺の知る限り、最も高いレベルのシールドが張られてしまった彼の微笑からは、何も得ることができなかった。
「ごめん……。」
どうしようもなくなって、俺は、ぼそっ、と彼の耳にかろうじて届くような声で謝った。
「俺のことなんか心配しなくても、自分の頭のハエを追うんだな。」
ごもっとも。……やっぱり、俺が、彼に何かを意見するなんて、十年以上早すぎるのかもしれない。そして、矢上くんは、ちっちゃなとげのように俺の心に突き刺さったままになってしまった。