『今度誘ってやるよ』という約束どおり、なのか、単なる好奇心からなのか、彼から晩飯のお誘いがあって、そりゃ、俺は、ちょっとうれしくて、いそいそ出かけてしまった。晩飯の間は、彼も、昔どおり、というか、まあ穏やかな会話で、それで油断した俺がいけなかったんだろうか。場所を飲み屋に移した途端に、
「で?」
例によって、不機嫌なんだか、からかってるんだか、判別しかねる顔をして、彼は、俺を促した。
「で、って、何が?」
今の彼の興味の及んでいる事柄は、おおよそのところ察しがつくけど、さすがに俺も、いきなりそういう内容に踏み込む自信はないので、とりあえずかわいく頭を傾げて逃げに出る。
「味見したんだろ?」
そこまで直接的な表現でくる?……俺は、一瞬、何て言って言い逃れしようかと思ったけど、結局、適切な言葉が思いつかなくて、
「うん。」
素直にうなずいてしまった。もちろん、すぐに、
「……けど、誰かさんが矢上くんに『とりあえず押し倒しちゃえばいい』なんて入れ知恵するから。」
そう抗議したんだけど、すると、彼は、全然きょとんとした表情で、
「ん?……俺が?」
なんだか、すごくまずい予感、というか、彼の表情を見ただけでその後に展開される状況が予想されて、俺は、一気に自己嫌悪の大波に飲み込まれてしまった。
「俺が、彼に何を言ったって?」
あちゃー、反撃に出たつもりだったけど、どうやら、俺は、取り返しのできない読み誤りをしてしまったらしい。
「……だから、矢上くんに、とりあえず押し倒しちゃえば、俺のことを自分のものにできる、とかって入れ知恵したのでは?」
しょうがないから、俺は、しぶしぶそう言った。
「ぶわっはっは。」
彼は、大爆笑で、俺は、ほんと、穴があったら入りたい心境。
「俺がそんなこと言うわけないだろ?」
そこまで腹を抱えて笑わなくてもいいと思うんだけど、
「信じたのか?」
彼の目付きは、俺の繊細な心を、ぐっさり、えぐるのに十分なくらい、爆笑を含んだものだった。
「だって……。」
あの状況じゃ、信じるしかないよ……。
「……。」
まだ笑っている。
「どうせ、俺は、単純なやつだから……。」
そこまで笑わなくったっていいのに。
「しかも、味見したんじゃなくて、味見されたっていうのが、いいよな、君らしくて。」
さすがに、俺も、憮然なんだけど、反論すべき言葉を思いつかない。俺にだってわかってる、俺自身が矢上くんへの興味というか好奇心というかを押さえきれなかったから、こういうことになったんだ、って。
「ちょっと心配したが、ちゃんとやってるんじゃないか。」
彼は、まだ、笑いの発作から完全には抜け切れていないようで、しゃっくりのような短い笑いを散発的にまき散らしている。
「これをネタに、彼からもっとおもしろい話が聞けそうだな。」
頼むからそういうことはやめて欲しい。
「駄目だよ、俺がこんなこと言ったなんて矢上くんに言っちゃ。」
きっと、矢上くんも、にやにやしながら、
『あれ、先輩、俺の台詞、本気にしたんですか?』
くらいのところを言いながら、俺に迫ってきて、kissされちゃうくらいが関の山、って、いったい俺は何を考えてるんだろう。
俺が、かなりいっちゃってる様子で想像にふけってる間に、彼の爆笑の発作もなんとか収まったようだった。そして、俺の顔をのぞき込むようにすると、
「で、どうするんだ?」
落ち着いた声でそう言った。もちろん、この質問は予期していたので、俺は、身構えることもなく、
「このあいだ、ちゃんと説明してきた、こっちで好きな人ができちゃった、って。」
正直にそう言った。彼の目付きが、ちょっとまぶしいものを見るような目付きになって、
「ふうん?」
どうやらそこまでは予想していなかったらしい。
「そうしたら、しょうがないよな、って言ってくれた。」
あー、やっぱり、俺って、しょうがない奴だな。しょうがない俺を責めもせず『しょうがないよな』と言った人の寂しい表情を思い出して、俺は、さっきとは違った意味の自己嫌悪の大波にさらわれそうになって、とりあえず、カウンターの上のグラスで自分をつなぎ止めた。でも、彼は、そのことに対してとやかくコメントしようという気はないらしく、
「いいんじゃないのか、それで。」
静かに言った、んだけど、グラスを持つ手が震えていたりする。ひょっとして、彼は、まだ笑いの発作に襲われそうになるから、コメントするどころじゃない、っていうのが真相だったりするんだろうか。
「きっと、そのくらいしっかりしてるやつのほうが、君にはちょうどいいんじゃないかな。」
そういう無責任なことを言っては、笑いをこらえていたりする。
「うん……。」
でも、それに対して俺が素直にうなずくことも、彼は予想していなかったらしい。そのままじっと、俺のことを、すごく意味深な目付きでながめてから、
「じゃ、俺も、新しいのを探すかな。」
なんて、そういうことをうそぶいたりする。
「……。」
俺は、なんだかなあ、って感じだったけど、現在の自分の状況を考えれば、当分の間、誰かのことを非難したりできる立場じゃない、っていう気がしたので、大人しく黙っていることにした。
「よかったじゃないか。」
そんな俺を見て、彼は、また、笑いの発作を押さえるのに一苦労のご様子だったりする。
「なんだよ……。」
俺は、彼の視線の意味を自分勝手に解釈して、自分勝手に赤面してしまいそうのになるのを誤魔化すのが大変だった。
「……。」
本当に、こんなことになっちゃっていいんだろうか、とか、まだ思わない訳じゃないんだけど、まあ、彼が言うとおり、これでいいのかもしれない。何より、不思議なくらい、自分自身でもこれでいいんだろう、と思えてしまう。きっと、いずれ、俺は矢上くんと一緒に暮らしたりするんだろう。そして、ますます矢上くんにいいようにあしらわれて『調教』されちゃったりするのかな。そんなことを思いながら、俺は、もう一度、カウンターの上のグラスを傾けていた。