あ、なんとなく、玄関のドアが開いたような気がする。俺は、台所で晩飯の用意をしながら、でも、知らんぷりをしていた。これは、絶対、斉藤さんが帰ってきたに違いない。斉藤さんの体重で、床がきしむ音がする。俺は、背中で斉藤さんの気配を感じながらも、精一杯、普通に振る舞っていた。
「ただいま。」
斉藤さんが、ゆっくりと俺の背中から抱き締めてくれる。
「あっ……。」
ちょっと大げさかな、と思いながらも、俺は、驚いてみせる。
「……くくく。」
それなのに、斉藤さんは、そんな俺の努力をあざ笑うかのように、とりあえず俺の首をねじ曲げるようにしてkissをする。
「びっくりするじゃないですか、斉藤さん。」
俺がそう抗議すると、斉藤さんは、
「何を気取ってるんだよ、俺が帰ってきた時からずっと気がついてるくせに。」
笑いをこらえることができない。
「ひどいなあ……。」
俺が、ちょっとふくれっ面をしてみせると、
「背中で、俺のことを意識してたくせに。」
笑いながら、俺の首を後ろに向けさせて、もう一度kissをする。
「知は、背中にも目があるんだなあ、って感心しちゃったぜ。」
ひどい言い方だなあ。そして、
「それより、『斉藤さん』はやめろ、ってあれほど言ってるだろ?」
そんなことを、しかも、とがめるような声で言うのだ。
「だって……。」
この件に関しては、俺は、あんまり斉藤さんの言うことを聞く気がない。
「ここは会社じゃないんだから。」
だけど、俺にとっては、会社にいても、俺の部屋にいても『斉藤さん』以外の誰でもないんだけどなあ。
「ちゃんと、『兄貴』とか、そういう色気のある呼び方をしろよ。」
斉藤さんはいつもそう言うんだけど、俺は、それを聞くたびに苦笑ってしまう。どうも、斉藤さんは、そういう体育会系ふうの呼ばれ方にあこがれているらしいんだけど、俺にとっては、『斉藤さん』って呼ぶほうがよっぽど色気があるのにな。例えば、こんなふうに男に後ろから抱き締められてる状態、って、正直なところ、何回かは(うーん、正直に言えば何十回かな)経験があるけど、俺にとっては『斉藤さん』にこうやって抱き締められてる、って思うだけで、……勃っちゃったりするんだけど。
「だめだよ、いたずらばっかりしちゃ。斉藤さんは、そこで大人しく待っててくれないと晩飯にならないよ。」
せっかく俺が、健気に言ってるのに、
「知のここだって、大人しかったりしないじゃないか。」
斉藤さんは、中年のいやらしさ丸出しだったりする。
「あっ……。」
本当は、そういうことされるかなー、と思って、スウェットをはいてたりする俺は、斉藤さんのその攻撃をついつい楽しんでしまう。でも、本当に、こんなことやってたら、いつまで経っても晩飯にならないから、
「中年はこれだから……。」
残念な気持ちを抑えて、俺は、野菜を炒めていたフライパンを持ち上げると、そのまま食卓に持って行って盛りつけをした。
「中年にエッチなことされて興奮してるくせに……。」
俺も、自分のスウェットがかなり卑わいな形状になってしまっているのはわかってるけど、あえて、斉藤さんのそういう挑発には乗らないことにする。
「ほら、ちゃんと、大人しくしないと、晩飯食わせてあげませんよ、斉藤さん。」
俺は、何とか斉藤さんを椅子に押し込んで、とりあえず、最近の自分のお気に入りのチーズと濃いめのビールをあてがっておくことにする。
「お、なかなかいいな、これ。」
でしょ?自分のお気に入りのチーズだもん。でも、斉藤さんって、悪食っていう訳じゃないけど、何でもおいしくいただいてくれる人なので、どの程度この微妙な味をわかってくれているのか不安にはなる。
「もうすぐできるから、ちょっと待ってて。」
けど、まあ、この際、俺の身体にちょっかいを出さずに大人しくしててくれることのほうが大切だから、そこらへんの疑問には目をつむることにする。
 こんなふうに、酒と食い物で大人しくさせて、そのすきに料理の残りを仕上げてしまうっていう技を身につけるまでは、晩飯を食わないままベッドに連れ込まれてしまったり、いろいろ大変だったんだけど、最近は、少なくともちゃんと晩飯が食えるようになってきた。斉藤さんとのこういう場面では、いつも『調教』っていう二文字が脳裏に浮かぶんだけど、それはそれでうなずけてしまうものがある。こうやって椅子に身体を押し込んでいる斉藤さんを見ると、美女と野獣かな、とかも思ってしまう。
「何をにやにやしてるんだよ。」
そりゃ、斉藤さんがかわいいからに決まってるだろ、って言いたいんだけど、そこまではなりきれない俺も、きっとかわいいのかな。
「はい、今日は、野菜メインで……。」
やっぱり、作ってあげたい人がいると、作れるもんだなあ。テーブルの上に並んだ皿を見ながら、俺はちょっと感心してしまう。
「おー、いつもすごいなあ。知は、ほんと、料理が上手だよな。」
そこまで言われると、さすがの俺も、これは斉藤さんのお世辞なんだってわかっちゃうんだけど、それでも、ほめられるのは悪い気分じゃない。
「どうせ、斉藤さんは、俺のところ以外じゃろくなもん食ってないだろうから。」
もりもりと料理とビールを平らげながら、
「まあ、そうだな。」
斉藤さんは苦笑している。
「……。」
それにしても、斉藤さんは、美味そうに食うよな。たぶん、俺の料理なんてたいしたことないんだろうけど、それでも、こんなに美味そうに食ってくれるなんて、それだけで、俺は、いつも、ちょっと、じーん、となってしまう。
「どうした?」
斉藤さんの目が、いたずらっぽく俺を見ている。まずい、どうやら、そこそこ腹がいっぱいになってきて、食欲の次の欲望が斉藤さんの中で頭をもたげてきているらしい。
「な、なんでもないよ……。」
そういう意味では、本当に、すごくわかりやすい人だ、斉藤さんって。
 斉藤さんは、俺の頭を抱くようにして、ゆっくりとkissをする。この瞬間が、俺は、一番好きかもしれないなあ。
「斉藤さん……。」
それなのに、斉藤さんは、せっかくの俺の気分を無視して、
「だから、その『斉藤さん』はよせ、って言ってるだろ?」
またそういうことを言う。でも、俺にとって、会社でも、自分の部屋でも、時々遊びに行く斉藤さんの部屋でも、斉藤さんは『斉藤さん』なのに。
「兄貴、が嫌なら、せめて、隆史、って呼べよ。名字じゃ色気がなさ過ぎるだろ?」
斉藤さんは、そう言うけど、だいたい、斉藤さんだって、会社で着てる作業服のままで、俺っていう恋人の部屋に来てるくせに。まあ、俺も同じ会社だからいいのかもしれないけど。それに、その作業服の胸には、ちゃんと、『斉藤』って名札までつけてるんだから。
「斉藤さんだって、その恰好じゃ、あんまり色気はないと思うけどな。」
俺がそう指摘すると、
「何言ってるんだよ、知はこういうのも好きだろ?」
好きって?
「工場で、よく俺のことを見てるじゃないか。」
斉藤さんは、そんなことを言う。確かに、工場で見かけると、斉藤さんのことを見てるけど、俺は、作業服を着てる斉藤さんを見てる訳で、作業服を見てる訳じゃない。
「見てるだけじゃなくて、時々、よだれが垂れてるぞ。」
そ、そんなことはないよ。斉藤さんのその言い方じゃ、まるで、俺が作業服フェチか何かみたいに響くじゃないか。
「だから、俺は、作業服で来てるんじゃないか、知が喜ぶかな、と思って。」
まあ、そういうことにしておいてもいいけどね。
「それで、作業靴のおまけまで付けてくれたんだ。」
玄関に脱いである斉藤さんの靴は、工場の現場で使っている作業靴だったりする。俺はかなり皮肉な言い方をしたはずなんだけど、斉藤さんは、全然気がつかないのか、それとも俺のそういう態度は無視するに限ると思ったのか、
「知に一刻でも早く会いたくて、会社からすっ飛んできたんだからしょうがないだろ?」
そういう甘言を弄する策に出る。俺は、一応、服も靴も会社で着替えてるんだけど、車で通勤してる斉藤さんは、会社にいる時のまま俺の部屋に現れる。だから、今の斉藤さんも会社で見る斉藤さんとまったく同じだったりするのに、「兄貴」とか「隆史」とか呼べるわけないと思うんだよな。そこらへんの少女心(おとめごころ)を理解せずに、俺が「斉藤さん」って呼ぶのに文句をつけるんだから、まったく困ったもんだ。