かっちゃんは、グラスの残りをのどに流し込むと、俺の方を、ちら、と見てから、
「俺も、いろいろあったし……。」
そんなことを、ぼそっ、と言った。
『まるで俺を試しているみたいだ』
と思いながら、
「彼は、元気にしてる?」
ちょっと皮肉を込めて、俺は、そう尋ねてみた。もう昔のことなんだけど、俺が、転勤になってしばらくして、かっちゃんに『それなりのそういうこと』があったらしいのだ。かっちゃんの『そういうこと』の相手には、俺は会ったことがなくて、もちろん、かっちゃんも俺にそいつを紹介してくれたりするはずもない。でも、俺が急の出張で来た時、ちょうどかっちゃんと連絡がつかなくて、とりあえずということでこの店に寄ってみたことがあるのだ。そうしたら、この店のマスターが、
「さっき来てたわよ。」
なんて言うんだけど、
「いっしょだったみたい。」
マスターはきっと俺が知っていると思ったらしくって、さりげなくそうつけ加えたのだ。もちろん、俺はそんなのは全然知らなくって、本当はかなりショックだったけど、
「え?……ふーん。」
なんて、誤魔化したりしたんだけど……。

 だから、俺は半分くらいは冗談で『彼』のことを言ってみたんだけど、
「『彼』ってだれのことだよ。」
かっちゃんは今だにとぼけてて、ちょっと不機嫌そうにそう言う。まあ、俺にしたって言ってることの半分は冗談じゃないんだから、かっちゃんも答えようがないよな。結局、その日はすれ違いになって、かっちゃんとは会わなかったんだけど、俺はその後も自分からはかっちゃんに電話しなかった。今から思うと、俺も人並に嫉妬したりしてたんだなあ、なんて苦笑してしまう。その時は、確かにいろいろ思うところがあったのに、今となってはすでに苦笑いの対象でしかないところが、俺らしいのかなあ。

 それが、そんなことがあってから、一ヶ月くらいした日曜日の朝に、
「もしもし?」
なんて、いきなり電話がかかってきて、かっちゃんからだったのだ。
「あれ?かっちゃん?」
眠っているところを電話で起こされた俺は、まだ、ほとんど完全に寝とぼけてたから、
「今から、行っていいか?」
かっちゃんの言ってることをあんまり理解していなくて、
「え、いいよ。」
なんて無責任な返事をしたのだ。
「じゃあ、今から行くからな。」
なんてかっちゃんが言って、一方的に電話が切れたんだけど、俺は、全然事態が把握できてなかったから、そのまま、またベッドにもぐり込んでしまったのだ。

 それで、他愛ない夢の中を漂っていた俺が、
「幸介……。」
かっちゃんの耳もとでささやく声で目を醒ましたという、ほとんど信じられないようなことがあったのだ。
「あ、あれ?……どうして、かっちゃんがここにいるの?」
早い話が、かっちゃんが俺の住む街までわざわざ来てくれて、俺の部屋の近くの公衆電話から俺に電話をした、という事実と、一応は俺の部屋の合い鍵をかっちゃんに渡してあったという事実があるんだけど、
「相変わらず、寝坊だな、幸介は……。」
俺は、てっきり夢を見てるんだと思って、手を伸ばしてかっちゃんの顔に触ってみようとした。
「えー、どうしたんだよ?」
どうやら本物らしいんだけど、
「どうしてここにいるんだよ?」
かっちゃんは、くすくす笑って、
「今から行くって言っただろ?」
おもしろがってるんだけど、俺は、本当にパニックで、いったいどうしたらいいのかわからなかった。

 でも、あせってる俺の上に、ゆっくりとかっちゃんがおおいかぶさって来たから、そんなことを考える必要も余裕もなくなってしまった。うとうとしてたせいで俺のパジャマのズボンは、すっかりテントを張っていて、
「ここだけは早起きなんだから……。」
なんてかっちゃんに言われちゃうのがくやしかったけど、
「自分だって、元気じゃないか」
かっちゃんの重さがなんだかすごくうれしかった。
「こっちに来るなんて、何にも言ってなかったじゃないか。」
カーテン越しの朝の光の中でそれなりのいかがわしいことをやった後で、俺は、かっちゃんの目を見つめてみた。もちろん、例によってかっちゃんは、
「たまたま気が向いたから、来てみただけなんだ。」
なんて言うだけなんだけど、
「ふーん……。」
俺は、絶対『彼』のことがあって、かっちゃんが来たんだと確信した。

 かっちゃんが何にも言わないから俺も何も聞かなかったけど、なんとなくそういう気がした。どっちにしても、日曜日にわざわざ俺の部屋に遠出をして来てくれるくらいには、まだ俺のことを気にしてくれてるんだと思うと、それだけですごくうれしかった。そのくらいのことでうれしがるなんて、自分でも馬鹿だとは思うけど……。結局、そんなことがあってから、こんなに離れてたら、自分の知らないところでかっちゃんに何かあったとしても、かっちゃんが知らせたくないんなら、知らないままでいなきゃいけないんだろう、なんて考えるようになったりしたのだ。もちろん、本当に『そんなこと』があったら、『苦笑い』くらいはしてみせるべきだとは思っているけれども……。
それで、考えてみれば笑ってしまうんだけど、本当に俺は、かっちゃんがその後『彼』とどうなったのか知らないのだ。『彼』とのことがかっちゃんにとってどのくらいの重さだったのか、とか、かっちゃんが『彼』と別れたのかどうか、なんていうことさえ……。ひょっとしたら、かっちゃんはまだ『彼』とつきあってて、今日は俺がくるから彼を足止めしてる、なんていうことも有り得なくはない。俺だって、『彼』のことに興味がないわけじゃなくて、本当は、いったいどうなっているのか知りたくて仕方ないんだけど、正直に言えばやせ我慢しているというところだろうか。この店のマスターも、かっちゃんに事情を聞いたのか、それとも、あの時の自分の対応がまずかったと思ったのか、あれから、とにかく『彼』のことを話題にしてくれないのだ。
「かっちゃんが忙しくなかったんなら、いいんだ。」
もちろん、俺も、かっちゃんに電話せずにこの街に出張してきたりはしないから、俺と『彼』がニアミスしたりすることもないんだけど……。ただ、ひょっとしたら、俺が無意識に『彼』を避けてるのかなあ、と思うと、そんなに平常心ではいられなかったりする。

 だから、こんなことを自慢してみてもどうしようもないとは思うんだけど、
『俺は、高校生のときのかっちゃんも知ってるんだ。』
なんて、改めて自分に言い聞かせてみたりする。馬鹿馬鹿しいとは思うんだけど、かっちゃんと自分の物理的な距離なんかを考えてちょっとブルー(!)なときには、そんなことだって俺の慰めにはなってくれる。
「それでも、考えてみれば、俺達、長いよなあ。」
かっちゃんと知り合って、もう十年以上になるなんて思ったら、なんだかしみじみしてしまう。
「本当に、三十才になんかなったら、いったいどういうふうになっているかなんて、想像もできなかったもんなあ。」
ちょっと遠い目付きをしたかっちゃんが、ひょっとして高校生の頃から全然変わってないんじゃないか、なんて思えてしまうのは、きっと、俺もかっちゃんと同じくらい変わってしまったからなのだろう。
「前にも言ったことがあるかも知れないけど、俺、会社に入ってすぐ、まだ新人研修を受けてる頃、帰りの電車のなかで三十才くらいの人を見たんだ。そして、その人が、バリトンのいい声で、……三十才っていうのは、ああいうもんなのかなあ、なんて思ったんだ。」
もう、今ではその人のイメージだけが残っていて、いったいどんな人だったのか、全然思い出せない。ただ、自分の三十才という年齢に対する思い入れだけが結晶しているような感じがする。

 すっかり思い出にひたってしまっている俺を見て、かっちゃんは、
「趣味だったのか?」
なんて言う。そういう露骨な言い方をされてしまうと、ちょっと困ってしまうだけど、でも、『いいなあ』と思うことが、『趣味』だというんなら、充分趣味だったんだろう。
「まあね、もうあんまりはっきりとは思い出せないけど、その日は霧雨みたいな天気で、ちょっと肌寒いような、たぶん4月の下旬だったかなあ。電車の窓から見える遠くの煙突とかが、夕暮れの中にぼうっとかすんでいて、墨絵みたいだったんだ。」
その情景を思い出すたびに、いつもせつないくらい懐かしい。
「幸介も、詩人だなあ。」
かっちゃんは、手元にグラスを引き寄せながら、そう茶化してみせる。
「なんとなく憂うつな天気のなかで、その人の落ち着いた暖かさみたいなものが、すごく印象に残ったんだ。」
もう一度、あの時に戻りたい、と真剣に思ってしまうのはなぜだろう。
「それで……。」
それだけのことだけど……。
「だから、俺も三十才になったら、あんなふうになりたいな、なんて……。」
少なくとも俺にはあんなバリトンは無理だ、とわかっていたけど、そのときの俺には、ひょっとしてあんなふうになれるかもしれないな、という気もしていた。
「……。」
グラスを片手に苦笑しているかっちゃん。
「俺も、もう三十才だもんなあ。」
なんだか、真剣にため息をついてしまう。俺なんか、いつまで経っても、昔の自分が抱いていた未来の自分のイメージに追いつけなくて、おたおたしているだけなのだ。