僕は、彼の肩に顔を埋めて、ちょっと甘えるふりをしていた。すると、その時、
「よっこらしょ……。」
という感じで、彼の体が僕の体におおいかぶさってきたので、僕は、いったい、どうしてしまったのかと、ちょっと不安になった。
「うーん……。」
どうやら、彼は、僕に腕枕として提供してくれているのと逆の手で、僕の体が布団からはみ出していないか確かめているらしい。
「だいじょうぶだな。」
そうして、僕の体がちゃんと布団の上にのっていることを納得してから、掛け布団を僕の体の上に引っぱってくれたのだ。彼は、何もなかったかのように、もとの姿勢にもどり、僕の手を優しく握ってくれたりした。
-本当に優しい人なんだ。
僕も、何も気づかなかったふりで、相変わらず彼の肩に顔を埋めたままだったけど、心が微笑ってしまうのは止められなかった。

 電話の呼び出し音が、受話器の中から響いてくる。ひょっとして、間違った番号を押してしまったかもしれないな、とちょっと不安になる。本当に彼の部屋の電話なら、きっと誰も出ないだろう。きっと、彼はまだ帰ってないに違いない。
「ガチャッ!」
突然の回線のつながる音に、ドキッ、としてしまう。やっぱり間違った電話番号を押してしまったんだ。
「もしもし……?」
でも、受話器から聞こえてくる声は、きっと彼の声に違いない。
「あ、あれ……、いたの?」
すっかりあわててしまって、僕は、いったいなんて言うべきなのかさえ思いつかない。
「自分で電話を寄こしといて、『いたの?』はないだろ?」
どうやら彼は、受話器の向こうで苦笑しているらしい。
「ま、まさか、いるとは思わなかったんだ。」
だから、僕は、しどろもどろの大あわてで弁解の言葉を探す。

 彼と一緒にスーパーに買い物に行ったとき、ふと目についたスタッフドオリーブが、無性に食いたくなった。
「これが欲しい。」
まるで子供みたいに、僕は、その細長いビンを持って、彼にねだってみた。
「いいよ、買ってやるよ。」
彼は、ちょっと嬉しそうに、僕の手から取り上げたビンを買い物かごに放り込む。
「時々、変なものを食いたがるんだな……。」
独り言のように、彼が、僕を振り返って笑った。確かに、酸っぱいだけで、そんなにうまいものじゃないとは思うけど、何となくクセになってしまいそうなところを持っていると思う。
「同じだよ……。」
僕も、独り言のように、彼の背中を突っつきながら、毒舌を吐く。
「俺とか……?」
ちょっとにらんでみせる彼の目つきが、僕を大人しくさせる。本当に、クセになってしまいそうだ。

 駅を降りたところにある電話ボックスに、ふと、電話をかけてみたくなった。
「もしもし……?」
やっぱり彼の声がうれしい。
「もしもし、僕だよ。」
声だけでうれしいなんて、僕も、甘ちゃんになっただなあ。
「なんだよ、今、どこにいるんだ。」
彼の声がちょっと厳しいので、
「……駅の近くの電話ボックス。」
と、正直に駅の名前を言う。
「そんなとこで何やってるんだよ。さっさと来いよ。」
また、彼にあきれられてしまった。
「迎えに来てよ、道がわからない。」
彼が、ダメ、というだろうとわかっていて、そんなことを言ってみる。
「何を馬鹿なことを言ってるんだよ。そこからなら、5分もかからないだろ?」
そりゃそうだけど……。
「第一、目をつむってても来られるくらいよく知ってるくせに、どうして道に迷ったりするんだよ。」
はあい、わかったよ。
「待ってるんだぞ。」
こんなふうに言われたら、素直に受話器を置かざるを得なくなってしまう。

 ちょっとぼんやりしていたので、ごはんを、ぼろっ、と、テーブルの上にこぼしてしまった。
「あ……っ。」
いけない、と思って、あわててごはんつぶを拾い上げたら、
「本当によくこぼすな。」
と、彼に言われてしまった。実は、今朝も、トーストにカップスープだかなんだかを飲みながら、カップスープが思ったより熱かったりしたので、ちょっとこぼしてしまったりしたのだ。
-そういう言い方をしなくても……。
だから、
「僕って、そんなにこぼすのかなあ。」
できるだけ、かわいく、言ってみた。
「自分でそう思うんだったら、よっぽどこぼしてるんだよ。」
僕は露骨に顔をしかめて見せたけど、彼は、全然気がつかないふうで、
「いつまでたっても、ガキなんだから……。」
はっきり言って、黙殺されてしまった。

 彼の大きくて温かい手がうれしくて、僕は何気ないふりで握りしめて、じゃれてみる。彼も、僕のするとおりに、ゆっくりと僕の手を握ってくれる。
「いい加減に寝ろ。……明日は仕事なんだろう?」
それはそうだけど……。
「眠くて仕事にならないぞ。」
そう言いながらも、彼は、僕の手を暖かく握っていてくれる。
「うん……。」
彼に手を握っていてもらうのがうれしくて、できることなら、一晩中、眠らずにこうしていたい。
「わかってるのか?」
なんて言いながら、彼も、僕の親指の腹をくすぐってみせたりする。
「わかってるよ。」
僕が眠れないのは、彼のせいだと思うけれど、僕は、素直に、彼の大きくて温かい手を握りしめるだけにする。
「いい加減に寝ろ、ったら……。」
はあい。僕は、彼の手の温かさを子守唄がわりに、眠りにつく。

 彼といっしょに酒を飲みに行ったら、彼のことばかり気になって、酒がうまいのかまずいのか、さっぱりわからない。きっと、酒そのものを楽しみたいときには、孤独を肴に、グラスを傾けるべきなんだろう。アルコールのせいなのか、少しだけ言葉が多くなっている彼に比べて、僕は、言うべき言葉がなかなか見つからない。
「……。」
彼に見つめられて、どきっ、とする。
「帰ろうか。」
急にそんなことを言われて、何か彼の気に入らないことを言ったりしたんじゃないかと、不安になりながらも、
「うん。」
とうなずく。
「俺の部屋でビールでも飲むか。」
単に、彼が、飲み屋の雰囲気に飽きちゃっただけのことらしいのを知って、僕は、ほっとする。
「シードルがいいな。」
そう言ってみると、
「わかったよ。帰りに酒屋さんで買っていってやるよ。」
彼がちょっと笑った。

 彼が、わざわざ、プシュッ、と手渡してくれたバドワイザーの缶に、僕は、ちょっと戸惑ってしまった。プルリングがそのままなのに、穴だけは開いているなんて、
「何を見てるんだ……?」
なんだか、うさんくさい缶だ。
「これが……。」
僕がプルリングを指さしてみせると、
「……。」
彼は、顔だけで大笑いして見せて、
「それは、輸入のやつだから、プルリングを引っぱって、中に押し込むようになってるんだ。ステイオンタブ、とかって言うんだぜ。」
と説明してくれた。
-へえ……。
初めてそういうのを見て感心している僕に、
「そういうところ、おまえって、本当に、天真らんまん、って言うか、無邪気って言うか……。」
今度は、ちょっと声を出して笑った。
-え?
喜ぶべきなのか、憤るべきなのか、よくわからないでいると、
「早い話が脳天気なんだな。」
なんて言うのだ。いくらなんだって、それはあんまりな言い方じゃないかなあ。

 はっきり言って、彼は気まぐれだから、気がむくと毎日のように、僕の部屋に電話をかけてくれることもある。二、三日のうちはそうでもないけれども、一週間も続けて毎日電話をしてくれると、それが当たり前になってしまう。だから、
「きのうは、電話してくれなかったんだね。」
つい、二日ぶりの電話に、愚痴をこぼしてみせたりする。
「あんまり毎日電話しているから、きっと嫌がってるんじゃないかと思って……。」
彼の声だけが笑っている。
「そんなことないよ、僕、嫌だなんて言ったことないだろ?」
ちょっと真剣に抗議してみせるけれども、
「そうか、じゃあ、また電話するよ。」
彼が笑っている。僕の答えは、彼にとっては、あまりに当たり前すぎたのかもしれないなあ、と思いながらも、
「本当だよ。」
つい、念を押してしまう。

 最近は、滅多に、そういう時間に通りかかることもなくなってしまったので、その公園でそういう人たちを見るのは、本当に久しぶりだった。
「今日、久しぶりに、そういう時間にあの公園を通って帰ったんだ。」
だから、というわけでもないけど、彼と電話で話している時にそんなことを言って、
「ふうん……。」
彼の言葉に耳を澄ませている。
「なんにもなかったけれど……。」
言い訳してしまう自分が、ちょっと情けなくなってしまう。
「たまには、そういうところも、楽しくていいだろうな。」
彼は、苦笑しているのだろうか?
「……怒るかな、と思ったんだけど……。」
僕もずいぶん間が抜けている、と我ながら思う。
「どうして……?」
きっと、彼は本当に笑っていて、その笑い声が、僕よりも彼のほうが年上なんだということを思い出させてくれる。

 ある雑誌の広告に、気圧計と湿度計と温度計がいっしょになったのを見つけて、
「これ、いいなあ。」
と、思わす言葉にしてしまった。きっと彼も読んでいる本があまり面白くなかったらしくて、
「どれが、いいって……?」
と、わざわざ、僕の見ている雑誌をのぞき込むふりをして、ちょっと僕にキスをしてみせた。
「買って、買ってよ、これ……。」
きっと彼が、ダメ、と言うだろうと思って、僕は、そんなふうに甘えてみせた。ところが、彼は、予想に反して、
「いいよ、欲しいんなら買ってやるよ。」
思いがけない反撃に、僕はあわててしまった。
「で、でも、せっかく買ってもらうんなら、もっといいのにしよう……。」
しどろもどろで言い訳する僕に、
「おまえが本気で欲しいって言うんなら、なんだって買ってやるぞ。」
彼は、あくまで涼しい顔をしているのだ。

 取り込んだ洗濯物を僕がたたんでいる間、彼は、ダイニングとリビング兼用のテーブルにもたれて、なにやら本を読んでいる。こういうときは、話しかけてみたって、どうせ半分も聞いてもらえないのはわかっているので、似たような白いスポーツソックスのペアを探すのに神経を集中することにする。白いスポーツソックスなんて、本当に同じようなのばっかりだから、ちゃんと二枚ずつ組にしようとすると、少なからずいらいらしてしまう。
「あーあ、弟が欲しかったなあ……。」
だから、いきなりの彼のため息も、しばらくの間は意味がわからなくて、
「え?」
なんて聞き返してしまう。
「もし、弟とかいたら、毎日、ちょっかい出して、かまってもらってただろうなあ。」
彼みたいな兄がいて、毎日、ちょっかい出してくれたりしたら、やっぱり、うれしくなってしまうだろうなあ。でも、
-僕じゃダメ?
なんて言えるほどには逞しくない僕は、ただ、
「ふうん。」
と、うなずいてみせながら、洗濯物の整理に忙しいふりをするだけなのだ。

 快感の名残に、半分ぐらいうとうとしながら、彼の腕枕に抱かれていると、ふと、自分がもう彼なしではやっていけなくなってしまったんじゃないか、というような錯覚に襲われてしまうことがある。それとも、そういう錯覚に陥ってしまいたいという願望が、僕にはあるんだろうか?
「好き……。」
だから、僕は、意味のない呪文のように、こっそりとつぶやいてみる。
「うん?」
彼の体が、ぴくり、と反応するけれども、彼は、何もコメントしようとはしない。
「うそ……。」
それは、まるで、自分自身に言っているようなので、僕は、自分の言葉に苦笑してしまう。
「うん……。」
僕の体にまわした彼の腕が、ぎゅうっ、と抱き寄せてくれて、僕は、錯覚が錯覚でなくなりそうな日が近いような錯覚に襲われてしまう。
-本当は、好き……。
僕は、彼の肩においた頭を、彼の胸の上に移して甘えてみせる。

 ちょっと遅く帰ってきた彼は、リボンのかかったちょっと大きめの箱を抱えていた。
「ほら、プレゼント……。」
無造作に僕の目の前にその箱を置くと、彼はネクタイをゆるめた。
「え?僕に……?」
一瞬、意味がわからなくて、頭の中で素早くカレンダーをめくってみる。
「……。」
ひょっとしたら、今日は、僕の誕生日だったりするだろうか?
「開けてみろよ。」
トレーナをかぶりながら、彼は僕の様子を楽しんでいる。
「う、うん……。」
やけに派手なリボンを解いて、がさがさと包装紙をはがすと、段ボール箱の中からはちょっと太り気味のペンギンのランプがでてきた。
「おまえによく似てたから、思わず、買ってしまったんだ。」
どうせ、僕は胴長短足だよ。
「……。」
ちょっとすねてみせながら、パチンとスイッチを入れると、ペンギンのお腹のところが、ぼうっ、と明るく光った。

  こんばんは温野菜のサラダにしような、と彼が言うので、
「オムレツをつけてくれるとうれしいんだけど……。」
僕は希望を述べることにした。
「わがままな奴だな。」
菜食主義の彼が、むつかしい顔をして、肩をすくめてみせる。
「来週は肉食主義になってやるから、少しぐらい我慢しろ。」
そう言いながらも、さっさとボールに卵を割ってしまう。
「うん……。」
週替わりで、食い物の主義がころころするんだから、しょうがないなあ、とは思うけど、いつもそれなりにうまいものを食わせてもらっているんだから、文句を言うこともないか。

 今日は、少し酒のピッチが早いかな、と自分でも思っていたけど、
「俺の部屋に帰ろう。」
彼に支えられてしまうほど酔っ払っているなんで思ってもみなかった。
「ありがとう……。」
何となくしたがもつれ気味で、彼の部屋にたどり着いたときには、部屋がゆっくりと回っていた。
「寒いよ……。」
不思議なくらい寒くて、彼のベッドの毛布にくるまったんだけど、そのうちに不意に暖かくなったのは、今から考えれば、彼の体温だったんだろう。
「お早う。」
次の朝、目を覚ましたら、見知らぬ部屋で、見知らぬ人のベッドに、服を着たまんま、毛布にくるまっていたんだ。そんな昔のことを。
「……。」
僕が思い出し笑いをすると、
「何を笑ってるんだ。」
今はもう、すっかり生活の一部になってしまっている彼が、優しくキスをしてくれた。

 最終電車の時刻になると、やっぱり、少し緊張してしまう。
-今日は、もう帰らなくちゃ。三日も自分の部屋に帰ってないんだから……。
そうすると、そんな僕を見透かしたように、彼が、
「何をそわそわしてるんだ?」
僕のほっぺたにキスをする。
「……別に。」
気の弱い僕は、帰る、と言い出せなくて、ポーカーフェイスをしてみたりする。
「じゃあ、こっちに来いよ。」
ぐいと腕を引っぱられて、僕は、ぎゅう、と彼に抱き締められてしまう。
-そんなに強く抱いたら、最終電車に間に合わなくなっちゃうよ。
仕方がないから、僕は、
「もう着替えもなくなっちゃったし、部屋に帰って、掃除とかもしようかな、と思ってるんだ。」
そんなときに彼の返事は、決まって、
「俺のを着てればいいだろ?」
という言葉と、思わず赤面してしまうくらい濃厚なキスなのだ。

 僕は、自分の部屋に帰って洗濯するからいいよ、って言うのに、
「洗ってやるから、寄こせよ。」
彼は、いつも、僕の下着やなんかを取り上げてしまう。
「手伝うよ。」
と僕が言っても、彼は、さっさと洗い上がった下着やなんかをベランダに干してしまう。彼のパンツと僕のパンツが並んで干されてたりすると、なんだか恥ずかしい。手すりの影でどうせ見えないし、もし誰かが見たとしたって、それが二人分の下着だなんてことは、わかりっこないんだけど、それでも気になってしまう。
「なんだかワイセツだなあ。」
だから、洗濯物がだいたい乾いたら、大急ぎで取り込んでしまうのだ。
-このパンツ、ワイセツだなあ。
でも、本当は、彼の赤いトランクスに触ってみたいから、そうするんじゃないだろうか。

 いっしょにいる時間が長くなればなるほど、自分を押さえていることが難しくなって、つい、けんかをしてしまう。
「もう、僕なんか、嫌になっちゃったんだ。」
そして、使い古された捨て台詞に頼ってしまったりする。
「なんだって……?」
彼を怒らせることがわかっていて、
「さっさと次の男を探したほうがいいんじゃないの?」
それでも、憎まれ口をたたかずにはいられない。
「そういう言い方は、おかしいんじゃないか。俺のことが我慢できないんなら、そう言えばいいだろう?」
彼は、乙女心なんてこれっぽっちも大切に思ってたりしないから、
「それなのに、俺に責任を押しつけようとするなんて……。」
ちゃんと僕の弱みをついてくる。
「おまえがどう思ってるのかを、俺は聞きたいんだ。」
僕は、きっと、彼を愛しているんだ。

 僕がお気に入りにクマのぬいぐるみを抱えて、スカルラッティだかなんだかを聴いていると、
「いっしょに暮らそうか。」
突然、彼が、僕の首筋にキスをした。
「え?」
僕が事態を飲み込めないでいると、
「でも、もう、いっしょに暮らしてるようなもんだしなあ。」
彼は、僕の耳たぶをくすぐった。
「それに……。」
まだ、僕は、何がどうなったのかよくわかっていなかった。
「おまえは、一人でも、充分やっていけるもんなあ。」
そう言いながら、彼は、僕からぬいぐるみを取り上げて、そいつを床の上に放り投げると、僕をベッドに押し倒した。僕は、ベッドに押し倒されながら、
-いったい、今のは、何だったんだろう。
あいかわらず事態が飲み込めていなかったりした。

 久しぶりに、彼の部屋に入った。ちょっとだけものが増えていて、さり気なく僕の写真がなくなっていた。
「ビール飲むか?」
彼が冷蔵庫から出してくれたバドワイザーを、プシュッ、と開けながら、
「腹が減ってるんだ。」
僕もあいかわらずだった。
「しょうがないなあ。おでんならあるぞ。」
彼がおでんを皿についでくれる間、僕は、おかきの袋を取り出して、ぼりぼり、やっていた。
「どうしたんだ、それ?」
彼が、僕の食べているおかきを指さして尋ねるので、
「売っているのを見たら、あんまり腹が減ってて、我慢できなかったから、買ってきた。」
正直に言った。そうしたら、
「電車の中で食ったのか?」
と、彼があきれた顔をするから、
「だって、そのために買ったんだもん。」
ちょっとすねてみせると、
「……。」
彼は、大笑いした。
「おまえらしいよ。電車の中の連中、びっくりしてただろ。」
彼も、あいかわらずだった。
 そして、僕がそろそろ帰ろうと思って立ち上がると、彼も立ち上がって、
「もう帰っちゃうのか?」
と、僕の肩に手を置いた。僕は、どきっ、としたけれども、
「うん。」
と、知らん顔でうなずいた。
「今さら、……始まらないよな。」
そうして、彼の言葉は、聞こえなかったふりをした。
「じゃあ、気をつけて帰れよ。」
でも、きっと、彼も、僕をベッドに押し倒せることぐらい、わかっていたに違いない。
「ありがとう。」
僕は、靴をはきながら、もう一度、彼の手を肩に感じていた。
「じゃあ……。」
『また……』という言葉を遠慮して、僕はドアを出た。何歩歩いたところで、彼の部屋のドアの鍵が、カチッ、と音を立てるだろうと、気にしながら歩いている自分が愛しかった。それで、未練がましいとは思ったけれど、
「……。」
僕が振り返ってみると、彼が自分の部屋のドアを開けたまま見送ってくれていた。
「……。」
彼が、黙って手を振ってくれたので、僕は、ちょっと微笑ってから手を振った。
「彼らしいな……。」
そんなところが好きだったんだけれども……。